にごりえ⑤
山高帽子の三十男の客を「菊の井」に呼び込んだお力。そこに、仲間のお高が加わります。
「いやさうは言はさぬ相手のない事はあるまい、今店先で誰《た》れやらがよろしく言ふたと他《ほか》の女が言伝《ことづて》たでは無いか、いづれ面白い事があらう何とだ(1)」(1)どうなんだ。
といふに、
「ああ、貴君《あなた》もいたり穿索《せんさく》(2)なさります。馴染はざら一面(3)、手紙のやりとりは反古《ほご》の取かへッこ(4)、書けと仰《おつ》しやれば、起証(5)でも誓紙でもお好み次第さし上ませう、女夫《めをと》やくそくなどと言つても、此方《こち》で破るよりは先方様《さきさま》の性根なし(6)、主人もちなら主人が怕《こわ》く、親もちなら親の言ひなり、振向ひて見てくれねば、此方《こちら》も追ひかけて袖を捉らへるに及ばず、それなら廃《よ》せとて、それぎりに成りまする。相手はいくらもあれども、一生を頼む人が無いのでござんす」
とて寄る辺なげなる風情《ふぜい》(7)。
(2)細部にわたって知りたがること。根掘り葉掘り。
(3)そこいらに数え切れないほど。
(4)書きよごした紙の交換。
(5)言動に偽りのないことや約束に違背しないことを、神仏に誓って書き記すこと、その文書。遊女らは、偽りのない証しとして、熊野牛王の護符の裏に書いた。「誓紙」も同義。
(6)相手の男に根性がない。
(7)頼りにするところのない、心細いありさま。
「もうこんな話しは廃しにして、陽気にお遊びなさりまし。私は何も(8)沈んだ事は大嫌ひ、さわいでさわいで騒ぎぬかうと思ひます」(8)何でも。万事。
とて手を扣《たた》いて朋輩を呼べば、
力ちやん大分おしめやか(9)だねと三十女の厚化粧(10)が来るに、
「おい、この娘《こ》の可愛い人(11)は何といふ名だ」
と突然《だしぬけ》に問はれて、
「はあ、私はまだお名前を承りませんでした」
といふ。
「嘘をいふと盆が来るに焔魔様《ゑんまさま》へお参りが出来まいぞ(12)」
と笑へば、
「それだとつて(13)、貴君、今日お目にかかつたばかりでは御坐りませんか、今改めて伺ひに出やうとしてゐました」
といふ。
(9)しんみりとしておいで。「お」をつけてからかい気味に述べている。
(10)仲間のお高のこと。お力のひき立て役を担っている。
(11)源七をさしている。
(12)「嘘を言うと閻魔様に舌を抜かれる」という諺にかこつけて客が冗談を言った。「盆」は7月16日で閻魔様の参詣日にあたる。
(13)それだからと言って。
「それは何の事だ」(14)質問を返されて。
「貴君のお名をさ」
と揚げられて(14)、
「馬鹿々々、お力が怒るぞ」
と大景気(15)、無駄ばなしの取りやりに調子づいて、
「旦那のお商売を当て見ませうか」
とお高がいふ。
「何分《なにぶん》願ひます(16)」
と手のひらを差出せば(17)、
「いゑ、それには及びませぬ、人相で見まする」
とて如何《いか》にも落《おち》つきたる顔つき、
「よせよせ、じつと眺められて棚おろし(18)でも始まつてはたまらぬ。かう見えても僕は官員(19)だ」
といふ。
「嘘を仰しやれ、日曜のほかに遊んであるく官員様があります物か。力ちやん、まあ、何でいらつしやらう」
といふ。
(15)非常に威勢がいい。
(16)なにぶんよろしくお願いします。
(17)客は、手相を見て当てるものだと思った。
(18)欠点を一つ一つ数えあげて指摘すること。
官吏。役人。明治時代のエリートコースを歩んだ「官員様」だけに「僕」という一人称が生きている。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
「いやそんなはずはない、相手のないことはないだろう、今だって店先でだれかがよろしくいってたってほかの女がことづてしてたじゃないか、なにかおもしろいことがあるんだろう、何かおしえろよ」
「あなたもすいぶん根ほり葉ほりきく方ねえ、ええ、なじみはざらにいますわよ、 あたしたちにとって、手紙のやりとりなんて反故をとりかえっこするのと同じなんですもの、書けといわれれば、起請でも誓紙でもお好み しだい書いちゃうわ、でもね、あたしたちみたいなものが夫婦約東なんかしたって、こっちで破るよりさきに、相手が破るんです、どっかに雇われてる人なら主人がこわくて 、親のいる人なら親のいいなりで、男なんて 、たいてい、根性なしよ、相手がふりむいてくれないんだから、こっちがむりやりおいかけていったってしょうがない、そんならやめちゃえって、それつきりになるの、そんな相手がいくらいたって、一生をたのめるような人はいないんです」とお力はさびしげな表情をみせた。
「ね、もうこんなはなしはよしましょう、陽気に遊びましょうよ、あたしは沈んだことはだいきらい、さわいでさわいでさわぎぬきたいわ」
お力が手をたたいて仲間を呼ぶと、
「カちゃんだいぶおしめやかだね」とあの三十女の厚化粧があがってきた。
「おい、この子の彼氏は何ていう名だい」といきなり客にきかれて
「はあ、あたしはまだお名前をうかがっておりませんでした」
「嘘をいったら、お盆が来るのにえんま様におまいりができないぞ」と客に笑われて
「だってあなた、きようお目にかかったばかりじゃありませんか、今あらためておききしようと思ってたところです」
「なにをさ」
「あなたのお名前、ふふ、カちゃんの彼氏」
「ばかばか、お力が怒るぞ」
これは受けて、座かおおいにもりあがった。そんな無駄ばなしのやりとりに調子づいて、お高が、「旦那のお仕事をあててみましようか」といいたした。おねがいしますと客が手のひらをさしだすと
「いえ手相じゃありません、人相で見ますとお高は落ちつきはらってまじまじと客の顔を見つめる。
「よしてくれよ、そんなに見つめられて棚おろしでもはじまっちゃたまらない、こう見えてもほくは官吏だよ」
「うそですよ、日曜じゃないのに、遊んで歩いてるお役人がどこにいますか、カちゃん、ねえ、何してらっしやる方だと思う」
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