にごりえ③
お力に入れあげてるもう一人の主人公、源七のことが語られます。
お高は往来《ゆきき》の人のなきを見て、
「力ちやん、お前の事だから、何があつたからとて気にしてもゐまいけれど、私は身につまされ(1)て源《げん》さん(2)の事が思はれる。それは今の身分に落ぶれては、根つから(3)宜いお客ではないけれども、思ひ合ふたからには仕方がない。年が違《ちが》をが(4)、子があろがさ、ねへさうではないか、お内儀《かみ》さんがあるといつて別れられる物かね、搆《かま》ふ事はない、呼出してお遣《や》り。私しのなぞ(5)といつたら、野郎(6)が根から心替りがして、顔を見てさへ逃げ出すのだから仕方がない。どうで諦《あきら》め物で別口へかかる(7)のだが、お前のはそれとは違ふ。了簡《りようけん》一つでは、今のお内儀《かみ》さんに三下《みくだ》り半《はん》(8)をも遣られるのだけれど、お前は気位が高いから、源さんと一処《ひとつ》にならう(9)とは思ふまい。それだもの、猶《なほ》の事、呼ぶ分に子細(10)があるものか。手紙をお書き。今に三河や(11)の御用聞きが来るだろうから、あの子僧に使ひやさん(12)を為《さ》せるが宜《い》い。何《なん》の人(13)、お嬢様ではあるまいし、御遠慮ばかり申《まをし》てなる物かな(14)。お前は思ひ切りが宜すぎるからいけない、ともかく手紙をやつて御覧。源さんも可愛さうだわな」
と言ひながらお力を見れば、烟管掃除に余念のなきか、俯向《うつむき》たるまま物いはず。
(1)自分の身にひきくらべて。ひとごとではなく感じられている。
(2)源七。もう一人の主人公。蒲団屋だったが、お力に入れあげて落ちぶれて、裏店に住んで手入れ人夫になっている。
(3)全然。まったく。いっこうに。
(4)「違はうが」の約。
(5)私の客(情人)。「なぞ」は「など」のなまり。
(6)心がわりした馴染み客をさげすんで呼んでいる。
(7)ほかの相手をさがす。
(8)夫が妻にわたす離縁状。三行半で書くしきたりがあった。
(9)夫婦になろう。
(10)差し支えとなる事柄。
(11)酒屋の屋号。
(12)手紙を届ける使い。
(13)なあに。なに。
(14)いいものかね。
やがて雁首《がんくび》(15)を奇麗に拭《ふ》いて一服すつてポンとはたき、又すいつけてお高に渡しながら、
「気をつけておくれ、店先で言はれると人聞きが悪いではないか。菊の井のお力は土方(16)の手伝ひを情夫《まぶ》(17)に持つなどと考違《かんちが》へをされてもならない。それは昔しの夢がたりさ、何の、今は忘れてしまつて、源《げん》とも七とも思ひ出されぬ。もうその話しは止《や》め止め」といひながら立あがる時、表を通る兵児帯《へこおび》(18)の一むれ、
「これ、石川さん、村岡さん、お力の店をお忘れなされたか」
と呼べば、
「いや、相変らず豪傑(19)の声がかり、素通りもなるまい」
とてずつと這入るに、忽《たちま》ち廊下にばたばたといふ足おと、「姉《ねへ》さん、お銚子」と声をかければ、「お肴は何を」と答ふ。三味《さみ》(20)の音《ね》、景気よく聞えて、乱舞(21)の足音これよりぞ聞え初《そめ》ぬ。
(15)キセルのタバコをつめる部分のこと。もともと、長くうねって雁の首に似ていたところからこう呼ばれた。
(16)土木工事に従事する労働者。
(17)情人。ここでは、もと遊女の情人の意。
酒を飲んで踊り狂う。
(18)男子や子どものしごき帯。もと薩摩の兵児が用いたところからいう。書生が愛用したので、ここでは書生たちのこと。
(19)お客を逃がさないすご腕で、誰もかなうもののない売れっ子。お力のことをユーモラスに呼んでいる。
(20)三味線。
(21)酒を飲んで踊り狂う。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
人どおりの途切れたすきに、お高がいい出した。
「カちゃん、あんたのことだから何があったって気にしてないんだろうけど、あたしには身につまされて源さんのことが気にかかるのよ、そりゃあ、ああおちぶれては、とてもいいお客とはいえないけど、おたがいに好きあったんだからしょうがない、年がちがったって子があったってさ、ねえそうじゃないの、おくさんがあるとい って別れられるもんじゃないわよ、かまわないから呼び出してやりなよ、あたしの男なんて、あいつの方で根っから心がわりして、あたしの顔を見たら逃げ出すんだもの、もうどうしようもない、さっさとあきらめてほかのをさがすんだけど、あんたのはそんなんじゃない、あんたのやり方ひとつで、今のおくさんと別れてもらうことだってできるんだよ、でもあんたは気位が高いから、源さんなんかといっしょになるつもりはないんでしょ、それだったらなおさら、呼んで会うくらい問題ないじゃないの、ね、手紙をかきなよ、今に三河やの御用聞きが来るだろうから、あの小僧にちょっと使いっぱしりさせるのよ、お嬢様じゃあるまいし、御遠慮ばかりもうしあげてた ってしょうがないよ、あんたは思い切りがよすぎるからいけない、とにかく手紙をかいてごらん、源さんがかわいそうだ」
お力は熱心に煙管を掃除している。うつむいたままものもいわない。
やがて雁首(がんくび)をきれいに拭いて、 一服すってポンとはたいて、またすいつけて 、お高にわたしながら、「気をつけてよ」とお力はいった。
「店先でいわれると人聞きが悪いわ、菊の井のお力は土方の手伝いを情夫に持ってるなんてかんちがいされちゃいやだもの、あれは昔の夢のおはなしよ、もうすっかり忘れちゃって、源とも七とも思い出さなくなっちゃった。さあ、もうその話は、やめ、やめ」
そういいながらお力が立ちあがったとき、表を兵児帯(へこおび)姿の学生たちが通りかかった。
「ちょっと石川さん村岡さん、お力の店を忘れちゃいやあよお」とお力が声をかければ、「やあやあ、あいかわらずの豪傑から声がかかった 、これは素通りもできまい」と学生たちがどやどやと入ってきた。たちまち廊下にばたばたいう足音、ねえさんお銚子とさけぶ声、お肴(さかな)は何をと答える声、三味線の音、踊りのはじまったらし いのも、けいきよくきこえてきた。
コメント
コメントを投稿