にごりえ②

物語の主人公で、銘酒屋「菊の井」の一枚看板に「お力」について語られていきます。

お高《たか》といへるは洋銀(1)の簪《かんざし》で天神がへし(2)の髷《まげ》の下を掻《か》きながら、思ひ出したやうに、
「力ちやん、先刻《さつき》の手紙お出しか」
といふ。
「はあ」と気のない返事をして、
「どうで来るのでは無いけれど、あれもお愛想さ」
と笑つてゐるに、
「大底《たいてい》におしよ、巻紙二尋《ひろ》(3)も書いて二枚切手の大封《おほふう》じ(4)がお愛想で出来る物かな。そしてあの人は赤坂(5)以来《から》の馴染ではないか、少しやそつとの紛雑《いざ》(6)があろうとも、縁切れになつてたまる物か。お前の出かた一つでどうでもなるに、ちつとは精を出して取止める(7)やうに心がけたら宜《よ》かろ。あんまり冥利《めうり》がよくあるまい(8)」と言へば、

(1)光沢のある銀白色をした銅、ニッケル、亜鉛の合金。安価なうえ、堅くて耐食性に富んで加工しやすいので、銀の代用として装飾品や食器に用いられる。
(2)髷の中央を毛髪で巻き一粒玉のかんざしで止めた、銀杏返しに似た髪の結い方。幕末から明治にかけてはやった、庶民的な結髪。
(3)「尋」はもともとは、大人が両腕を一杯に広げた長さとされた身体尺。1尋=6尺、あるいは5尺とされる。明治期には1尺=10/33メートルとされたので、1尋は約1.8m、あるいは約1.5mということになる。
(4)長い手紙の入った分厚い封書。
(5)いまの港区赤坂に位置した花街。御用商人や付近の兵営軍人の手軽な遊び場として栄え、一軒で多くの芸妓を多数抱えているのが特徴だった。"安売り"の代名詞として呼ばれることもあったという。
(6)「いざこざ」の略。もめごと。ごたごた。
(7)あの客との縁をひきとめる。
(8)客を粗末にすると良いことはないだろうよ。

御親切に有がたう、御異見(9)は承り置まして私《わたし》はどうもあんな奴は虫が好かないから、無き縁とあきらめて下さいと人事のやうにいへば、あきれたものだのと笑つてお前などはその我ままが通るから豪勢さ、この身になつては仕方がないと団扇《うちは》を取つて足元をあふぎながら、昔しは花よ(10)言ひなし(11)可笑《をか》しく、表を通る男を見かけて寄つてお出でと夕ぐれの店先にぎはひぬ。
店は二間《けん》間口の二階作り、軒には御神燈(12)さげて盛《も》り塩《じほ》(13)景気よく、空壜《あきびん》か何か知らず、銘酒(14)あまた棚の上にならべて帳場めきたる(15)処もみゆ、勝手元には七輪を煽《あほ》ぐ音折々に騒がしく、女主《あるじ》が手づから寄せ鍋《なべ》茶椀《ちやわん》むし位はなるも道理《ことわり》(16)、表にかかげし看板を見れば子細らしく(17)御料理《おんりようり》とぞしたためける、さりとて仕出し(18)頼みに行《ゆき》たらば何とかいふらん、俄《にはか》に今日《こんにち》品切れもをかしかるべく、女ならぬお客様は手前店(19)へお出かけを願ひまするとも言ふにかたからん(20)世は御方便(21)や商売がらを心得て口取り(22)焼肴《やきざかな》とあつらへに来る田舎ものもあらざりき。

(9)ご意見。
(10)「馬鹿にしやすんな昔は花よ、鶯なかせたこともある」という都々逸による。
(11)言いぶり。
(12)入口の軒にさげた提灯。ここでは、色街で、縁起をかついでいる。
(13)水商売の店先で、客寄せの縁起として三角形に塩を盛ったもの。
(14)特別の名前をつけた、良い酒
(15)帳場らしい。
(16)できるのももっともだ。
(17)もったいぶって。
(18注文に応じて調理して届けること。
(19)わたくしどもの店。
(20)言いにくいだろう。
(21)世の中はうまくだきたもの。
(22)料理の最初に出す皿盛り。かまぼこ、きんとん、魚・鳥・野菜などを甘みをきかせて調理したもの。

お力といふはこの家《や》の一枚看板(23)、年は随一若けれども客を呼ぶに妙ありて(24)さのみは愛想の嬉しがらせを言ふやうにもなく(25)我まま至極の身の振舞、少し容貌《きりよう》の自慢かと思へば小面《こづら》が憎くい(26)と蔭口《かげぐち》いふ朋輩もありけれど、交際《つきあつ》ては存の外《ほか》(27)やさしい処があつて女ながらも離れともない(28)心持がする、ああ心とて仕方のない(29)もの面《おも》ざしが何処《どこ》となく冴《さ》へて(30)見へるはあの子の本性が現はれるのであらう、誰《たれ》しも新開《しんかい》(31)へ這入《はい》るほどの者で菊の井のお力を知らぬはあるまじ、菊の井(32)のお力か、お力の菊の井か、さても近来まれの拾ひもの、あの娘《こ》のお蔭で新開の光りが添はつた(33)、抱《かか》へ主《ぬし》は神棚へささげて(34)置いても宜《い》いとて軒並びの羨《うら》やみ種《ぐさ》(35)になりぬ。

(23)この店でいちばんの人気者、ナンバー1酌婦だった。
(24)たいへん上手。極めて優れている。
(25)それほど客をうれしがらせる御愛想を言うわけでもなく。
(26)顔つきが憎らしい。
(27)思いのほか。
(28)いつまでもいっしょにいたい。
(29)心は隠そうとしても隠しきれないもの。
(30)優れて。
(31)新開地の銘酒屋街。新たな土地には、女を置く商売が先行する傾向がある。
(32)銘酒屋の屋号。
(33)新開の格が上がって余計に繁盛するようになった。
(34)神棚にまつって、あがめ敬う。
(35)うらやまれるもと。

朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から

お高は洋銀のかんざしで天神がえしの羸の下をかきながら、思い出したようにいった。「カちゃん、さっきの手紙出した?」
お力はうーんと気のない返事をして、「どうせ来るわけないけど、あれもお愛想よ」と笑っている。
「いいかげんにしなよ、巻紙に長々とかいて二枚も切手はってさ、そんなことがお愛想でできるわけないでしょ、あの人は赤坂からのおなじみじゃないの、ちょっとやそっとのいざこざで縁切れになっちゃたまんないわよ。あんたの出方ひとつでどうでもなるんだから、ちょっとはがんばってひきとめてごらんよ、でないとそのうちばちがあたるよ」
「ご親切にありがとう、ご意見はうけたまわっておきますけどね、あたしはどうもあんなやつ虫がすかなかったのよ、縁がなかったんだとあきらめてちょうだい」と他人ごとのようにお力がいった。
「あきれたもんだわね。 とお高は笑って、うちわで足元をあおぎながらいった。「あんたなんかそのわがままが通るからいいわよ、あたしみたいになっちゃおしまいよ」

昔は花よというそのいいぐさに笑いながら、女たちは表を通る男に、寄ってってよ寄ってらっしゃいよと声をかけていく。夕暮れの店先が、にぎやかになってきた。
店は二間間ロの二階作りである。軒にはご神燈をさげてある。塩も景気よく盛ってある。空壜かなにかはわからないが、銘酒がたくさん棚の上にならべてある。酒屋の帳場のようにみせかけているのである。勝手元からは七輪(しちりん)をあおぐ音が、ときどきさわがしくきこえてくる。女主人が自分で、寄せ鍋や茶わんむしなどをつくるのである。表にかかげた看板には、御料理と、それらしくかいてある。それを真にうけて仕出しを頼みに来られたらどうするか。今日は品切れでとことわるか。女以外のお客様のみ歓迎ととりつくろうか。どうにもこまったことになるはずなのに、そこはよくしたもので、世間はちゃんと、この店の商売がなんなのかを心得ている。ロ取りだ焼き魚だと注文にきたためしもない。

お力というのは、この家の一枚看板である。年はいちばん若いのに客をひきつけるのがうまい。たいしてお愛想やうれしがらせをいうわけでもなく、むしろ、いたってわがままにふるまっている。ちょっと器量がいいと思ってなまいきだと仲間うちから陰口をたたかれることもあるが、つきあってみるとあんがいやさしいところがあって、女同士でも、離れがたいきもちにさせられる。お力の顔だちがどことなく冴えて見えるのは、あの子の本性があらわれているせいだと人がいう。心ってのは隠しようのないものだから、と。新開へやってくる者ならだれでも、菊の井のお力を知らないものはない。菊の井のお力か、お力の菊の井かともいわれ、菊の井にとってはこれは近ごろまれな拾いものだ、あの子のおかげで新開があかるくなった、抱え主はあの子を神棚へあげておがんだっていいと、周囲からうらやまれている。

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