にごりえ①
きょうから「にごりえ」に入ります。にごった入江の意で、舞台である銘酒屋の街のことを表しています。1895(明治28)年9月、博文館『文芸倶楽部』に発表されました。この年は一葉の父・則義の七回忌にあたり、一葉はこの法要のため博文館に原稿料の前借りを申し出ていて、「にごりえ」はその引き換えとして執筆されました。遊女お力が、落ちぶれて妻子と別れた源七と情死するまでが描かれます。
一
「おい木村さん信《しん》さん寄つてお出《いで》よ。お寄りといつたら寄つても宜《い》いではないか、又素通りで二葉《ふたば》や(1)へ行く気だらう、押《おし》かけて行《ゆ》つて引ずつて来るからさう思ひな、ほんとにお湯《ぶう》(2)なら帰りにきつとよつておくれよ、嘘《うそ》つ吐《つ》きだから何を言ふか知れやしない」
と店先に立つて馴染《なじみ》らしき突《つツ》かけ下駄(3)の男をとらへて小言《こごと》をいふやうな物の言ひぶり、腹も立たずか、言訳しながら、
「後刻《のち》に(4)、後刻に」
と行過《ゆきすぎ》るあとを、一寸《ちよつと》舌打しながら見送つて、
「後《のち》にも無いもんだ、来る気もない癖に。本当に女房もちに成つては仕方がないね(5)」
と店に向つて、閾《しきい》をまたぎながら一人言《ひとりごと》をいへば、
「高《たか》ちやん、大分《だいぶ》御述懐《ごじつかい》(6)だね。何もそんなに案じるにも及ぶまい、焼棒杭《やけぼつくい》と何《なに》とやら(7)、又よりの戻る(8)事もあるよ、心配しないで、呪《まじなひ》(9)でもして待つが宜《い》いさ」
と慰めるやうな朋輩《ほうばい》の口振《くちぶり》、
(1)銘酒屋の屋号。銘酒屋は、酒を売っているという看板をあげて、ひそかに売春をさせた遊女屋で、明治から大正時代にかけて見られた。
(2)銭湯。「ぶう」は、女性や子供の使うことば。
(3)下駄の前鼻緒を突っかけた、職人や遊び人風の無造作な履き方。
(4)あとで来るの意。「あとで、あとで」という感じの男の逃げ言葉。
(5)男も妻をめとると、思い通りにならなくなってしようがないね。
(6)愚痴を言い立てるさまを、ふざけ半分にもっともらしく言っている。
(7)「焼棒杭」は、焼けた杭、燃えさしの切り株、木片。火が消えたように見えても、また燃えだすことがあるところから、以前に関係のあった男女が、もとの関係に戻ることのたとえに用いられる。
(8)別れた男女がもとの関係にもどる、復縁する。「より」は「縒り」、糸などの細かいものを何本かねじり合わせる意。
(9)格子をたたいて願いごとをとなえると望みがかなう、といった花柳界の女性が客を呼ぶための特殊なまじない。
力《りき》ちやんと違つて私《わた》しには技倆《うで》が無いからね、一人でも逃しては残念さ、私しのやうな運の悪るい者には呪も何も聞きはしない、今夜も又木戸番(10)か、何たら事(11)だ面白くもないと肝癪《かんしやく》まぎれに店前《みせさき》へ腰をかけて駒下駄《こまげた》(12)のうしろでとんとんと土間を蹴《け》るは二十の上を七つか十か引眉毛《ひきまゆげ》(13)に作り生際《はへぎは》(14)、白粉《おしろい》べつたりとつけて唇《くちびる》は人喰ふ犬の如《ごと》く(15)、かくては紅《べに》も厭《い》やらしき物なり、お力と呼ばれたるは中肉の背恰好《せいかつかう》すらりつとして洗ひ髪の大嶋田《おほしまだ》(16)に新わら(17)のさわやかさ、頸《ゑり》もとばかりの白粉も栄《は》えなく見ゆる(18)天然の色白をこれみよがしに乳《ち》のあたりまで胸くつろげて(19)、烟草《たばこ》すぱすぱ長烟管《ながぎせる》に立膝《たてひざ》の無沙法《ぶさはう》さも咎《とが》める人のなきこそよけれ、思ひ切つたる大形《おほがた》の裕衣《ゆかた》に引《ひつ》かけ帯(20)は黒繻子《くろじゆす》と何やらのまがひ物、緋《ひ》の平《ひら》ぐけ(21)が背の処に見えて言はずと知れしこのあたりの姉さま風(22)なり、
(10)戸口に立って空しく客を待っているところから、売れ残りの女性をいう。
(11)「何たら」は「何たる」の変化した語で、何ということだ、の意。
(12)台、歯ともに一つの木材から刳(く)ってつくった下駄。もともと刳り方が駒爪形だったところからいう。この語以下、女性のしぐさや気持ちを描写していく。
(13)眉毛を抜いたりそったりしたあとに眉墨で描いた眉。濃く見せるため、眉毛の上をなぞり描いた眉をいうこともある。
(14)髪の生え際を美しく見せるため、生え際に墨を塗ったり手を加えたりして額をくっきり見せること。
(15)口紅の濃いさまが、人を食った犬のように見えた。
(16)大きく結った島田髷。
(17)生長した早苗に熱湯を注いでかわかしたもの。洗い髪の根をこれで結ぶと邪気払いになるという俗信があり、花柳界の女性らが髪を束ねたり、髪を飾ったりするのに用いた。
(18)お力はもともと色白なので、首筋のおしろいも際立っては見えない。
(19)襟元をゆるめて胸をはだけるように着ている。
(20)お太鼓結びにしないで、帯の端を下へ垂らしておく。
(21)ひもや帯に芯を入れず、平らに仕上がるようにくける(縫い目が表に見えないように縫う)こと。
(22)姐さま風。酌婦といわれる私娼の容貌。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・伊藤比呂美]から
「ちょっと木村さん、信さん、寄ってってよ、寄ってってっていってんだから、寄ってってくれたってい いじゃないの、また素通りして二葉やヘ 行く気なんだろう、おしかけてってひきずってきてやるからそう思いな、ほんとにお風呂屋なら帰りにきっと寄ってってよ、まったくうそっつきなんだから、何をいうかわかんないんだ から」
店先に立って、女がまくしたてる。つつかけ下駄の男にむかって、小一言をいうような口ぶりでまくしたてる。馴染みらしい男は怒りもしない 。言いわけしながら、あとであとでと行き過ぎる。それを女は、チョッと舌打ちしながら見送って、「あとでもないもんだ、 へ、来る気もないくせに、ほんとに女房もちになっちゃしょうがないね」と店のしきいをまたぎながらひとりごとをいった。
「高ちゃんなにをぐちぐちいってんのよ、そんなにやきもきしなくたって焼けぼっくいと何とかだってば、またよりの戻ることもあるわよ、心配しないで、おまじないでもして待ってればいいんだよ」と慰めるようにもう一人の女がいった。
「カちゃんとちがってあたしにはテクニックてもんがないからね、一人でも逃しちゃったら惜しくってさ、あたしみたいな運の悪いのは、おまじないだってなんだってききやしない、あーあ、今夜もまたアプレっちゃう、なんだってこうなんだろ、あー、くそおもしろくもない」
女は店さきへ腰かけて、きもちがおさまらないように駒下駄のうしろでトントンと土間を蹴っている。年は三十前後、眉毛は引いてある、生えぎわもつくってある、白粉(おしろい)もべったり塗りたくってある。唇も、たった今人を食った大みたいに、染めぬいてある。
お力と呼ばれたのは、中肉の、背格好のすらりとした女である。洗い髪の大島田にさわやかに新わらをかざっている。化粧っ気といえばえりもとにつけた白粉くらいだが、それもくすんで見えるほど、色白のきれいな肌である。その肌を乳房のあたりまであらわにして、立て膝をついて、長煙管(ながぎせる)で煙草をすばすばふかしてと、 いたって行儀がわるい。行儀を人にとやかくいわれることなどないのである。ゆかたは思い切った大柄、帯は黒繻子となんだかのまがいものを、背のところに緋色をはでに出して、しどけなくむすんで垂らしている。ひとめで、この町の商売女と見てとれる。
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