大つごもり⑨
「大つごもり」もいよいよクライマックス。「引出しの分も拝借致し候」の受取一通を残した石之助とお峯の今後が気にかかります。
お母様御機嫌よう、好い新年をお迎ひなされませ。左様ならば参ります」と、暇乞わざとうやうやしく(1)、
「お峯、下駄を直せ、お玄関から、お帰りでは無いお出かけだぞ」
と図分《づぶ》図分しく(2)大手を振りて、行先は何処、父が涕《なみだ》は一夜の騷ぎに夢とやならん(3)。持つまじきは放蕩《のら》息子、持つまじきは放蕩を仕立る継母《まゝはは》ぞかし。塩花(4)こそふらね跡は一まづ掃き出して、若旦那退散のよろこび、金は惜しけれど見る目も憎ければ、「家に居らぬは上々なり、何うすれば彼のやうに図太くなられるか。あの子を生んだ母《かゝ》さんの顔が見たい(5)」と、御新造例に依つて毒舌をみがきぬ。
(1)継母へのあてつけの態度。
(2)ずうずうしく。ずぶとく。
(3)父の流した涙も、石之助の今夜の騒ぎで夢と消えるだろう。
(4)きよめのために振りまく塩。
(5)継母の口からこの常套句が出ている点が興味深い。
お峯はこの出来事も何として耳に入るべき。犯したる罪の恐ろしさに、我れか、人か、先刻《さつき》の仕業はと今更夢路を辿りて、「おもへばこの事あらはれずして済むべきや。万が中なる一枚とても数ふれば目の前なるを(6)、願ひの高に相応の員数《いんず》(7)、手近の処になくなりしとあらば、我れにしても疑ひは何処に向くべき。調べられなば何とせん、何といはん。言ひ抜けんは罪深し(8)、白状せば伯父が上にもかゝる。我が罪は覚悟の上なれど、物がたき伯父様にまで濡れ衣を着せて、干されぬ(9)は貧乏のならひ、かゝる事もする物(10)と人の言ひはせぬか。悲しや、何としたらよかろ。伯父様に疵のつかぬやう、我身が頓死(11)する法はなきか」と、目は御新造が起居《たちゐ》にしたがひて、心はかけ硯のもとにさまよひぬ。(6)すぐわかってしまうというのに。ただちに露見するのに。
(7)お峯が刈りたいと願ったのと同じ金額。
(8)ウソや口実で言い逃れるのは、罪深いことだ。
(9)お峯と共犯と見られるのは、叔父にとっては無実の罪。着物が一枚だけで洗い替えのない意と無実の罪の晴らしようのない意を込めた。「干されぬ」は無実の罪が晴れないことで、「濡れ衣」の縁語。
(10)貧乏人の習わしで、こんなこと(盗み)もする。
(11)急病などでにわかに死ぬこと。
大勘定(12)とてこの夜あるほどの金をまとめて封印(13)の事あり。御新造それそれと思ひ出して、
「懸け硯に先程、屋根やの太郎に貸付のもどり、彼金《あれ》が二十(14)ござりました。お峯お峯、かけ硯を此処へ」
と奧の間より呼ばれて、最早この時わが命はなき物。「大旦那が御目通りにて(15)始めよりの事を申し、御新造が無情そのまゝに言ふてのけ、術もなし法もなし、正直は我身の守り、逃げもせず隠られもせず、欲かしらねど盜みましたと白状はしましよ、伯父様同腹《ひとつ》でなきだけ(16)を何処までも陳《の》べて、聞かれずば甲斐なし、その場で舌かみ切つて死んだなら、命にかへて嘘とは思しめすまじ」。それほど度胸すわれど、奧の間へ行く心は屠処《としよ》の羊(17)なり。
(12)一年の総決算。
(13)決算した金を封じて、封じ目に印を押す。
(14)20円。
(15)見ておられる前で。
(16)伯父さまは同じ考えではないということだけを。
(17)屠殺場にひかれてゆく羊。不幸に直面して気力を失い、悲しみに打ちひしがれたもののたとえ。
お峯が引出したるは唯二枚、残りは十八あるべき筈を、いかにしけん、束のまゝ見えずとて底をかへして振へども甲斐なし。怪しきは、落散《おちちり》し紙切れにいつ認《したゝ》めしか受取一通。
(引出しの分も拝借致し候 石之助)
さては放蕩《のら》かと人々顔を見合せて、お峯が詮議(18)は無かりき。
孝の余徳は、我れ知らず石之助の罪になりしか(19)、いやいや知りて序《ついで》に冠りし罪かも知れず。さらば石之助はお峯が守り本尊(20)なるべし。後の事しりたや。
(18)罪人を取り調べること。また、罪人を捜索すること。
(19)お峯の孝行心の恩恵で、知らないうちに石之助の罪になったものか。
(20)身の守りとして信仰する仏。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・島田雅彦]から
母さん、ごきげんよう、よいお年を、それじゃ、とわざとらしくいい、お峰、下駄を直せ、玄関からだ、お帰りじゃない、お出かけだぞ、と図々しく大手を振って、何処へ行くつもりか、父の涙も一夜の乱痴気騒ぎで夢と消えるだろう、持っちゃならないドラ息子、持っちゃまずいよ、 ドラを仕立てる継母、清めの塩こそまかないものの、ほうきで掃いて 、若旦那退散を喜び、金は惜しいが見ているだけで腹が立つので、家にいないのが最高、どうすればあんなに図太くなれるのか、あの子を産んだ母さんの顔が見た い、と後妻は例によって毒舌を磨く。
お峰はこんな出来事もうわの空で、犯し た罪を恐れ、本当に私がやったんだろうか、と今さら夢みたいに思い出し、考えてみれば、いつかはバレることだわ、一万の中の一枚だって数えればすぐわかるのに、借りたいと願い出た額とピッタリの金が手近なとこからなくなったとなれば、私だって私をまっさきに疑う。調べられたらどうしよう、どういおう、 いい逃れはもっと罪なこと、白状したら伯父さんにも迷惑がかかる、自分の罪は覚悟の上だけど、堅い伯父さんにまで濡れ衣を着せられたら、それを干せないのが貧乏人の弱みってもんだし、貧乏人は盗みもするなんて思われたりしちゃう、困った、どうしよう、伯父さんに傷がつかないよう、私が死んじゃえばいいんだ、でもどうやって、自然、目は奥さんの動きを追い掛け、心はかけ硯のもとへさまよう。
この夜、大勘定といって、家にあるたけの金をまとめて決算することになり、奥さんはそういえば、と思い出して、屋根やの太郎に貸した金が返ってきて、それが二十円、かけ硯の中にあったんだ、お峰、それをここへ持っといで、と奥の間から呼ばれ、万事休す、こうなったら、御主人の目の前で、事の次第を話し、奥さんの無情をありのままいってのけよう、小細工はせず、正直さで自分を守って、逃げも隠れもせず、欲しいわけじゃなかったけど、盗みましたって白状しよう、伯父さんと共犯じゃないことだけははっきりさせて、聞き入れてもらえなかったらしようかないわ、その場で舌を噛み切って死ねば、命を張って本当のことをいったと思われるだろう、と覚悟を決めたけど、奥の間へ行く心は屠殺場に向う羊も同然。
お峰が引き抜いたのはたったの二枚、残りは十八枚あるはずなのに、なぜか束ごとなくなっている、ひっくり返して振ってみても同じこと、不思議なことに紙切れが落ちてきた、いつしたためたものやら受取りが一通。
(引き出しの分ももらっとく 石之助)
ドラのしわざだ、 とみんな顔を見合せて、お烽は疑われなかった、親孝行の駄目押しはいつの間にか 石之助の罪になっていた? いやいや、お峰の盗みを知ったついでに罪を被ってやったのかも知れない、だとすれば石之助はお峰の守り神かな、 さてその後どうなったのかしらね。
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