大つごもり⑧

年の瀬、お峯の奉公先には、放蕩ざんまいの若旦那、石之助がお金をせびりに帰ってきています。

その日も暮れ近く、旦那つりより恵比寿《ゑびす》(1)がほして帰らるれば、御新造も続いて、安産の喜びに送りの車夫《もの》にまで愛想よく、
今宵を仕舞へば(2)又見舞ひまする、明日は早くに妹共の誰れなりとも、一人は必らず手伝はすると言ふて下され、さてさて御苦労」と蝋燭代(3)などをやりて、
「やれ忙がしや、誰れぞ暇な身躰を片身(4)かりたき物。お峯、小松菜はゆでゝ置いたか、数の子は洗つたか、大旦那はお帰りになつたか。若旦那は」
と、これは小声に、まだと聞いて額に皺を寄せぬ。

(1)釣りの縁語。七福神の一つ。狩衣・指貫・風折りえぼしをつけ、右手につりざお、左手に鯛をだく。鯛を釣った姿で、にこにこ顔をしている。
(2)今夜を済ませたら。大晦日は一年の総決算日で、多忙をきわめた。
(3)夜の使いなどにやる心づけ。夜道で灯す提灯のろうそく代として渡す。
(4)半分。半身。

石之助、その夜はをとなしく、「新年《はる》は明日よりの三ヶ日なりとも、我が家にて祝ふべき筈ながら、御存じの締りなし。堅くるしき袴づれ(5)に挨拶も面倒、意見(6)も実は聞あきたり。親類の顔に美くしきも無ければ、見たしと思ふ念もなく、裏屋の友達がもとに今宵約束もござれば、一先《ひとまづ》お暇として、いづれ春永《はるなが》に(7)頂戴の数々は願ひまする。折からお目出度《めでたき》(8)矢先、お歳暮には何ほど下さりますか」と、朝より寝込みて父の帰りを待ちしは此金《これ》なり(9)

(5)袴をはいて年始のあいさつに来る人たち。「づれ」は、…のようなやつ、…ごとき者。ののしったり、さげすんだりする意の接尾語。
(6)説教。
(7)またの機会に。春永は正月。
(8)姉娘の出産を指している。
(9)この金が目当てである。

子は三界の首械《くびかせ》(10)といへど、まこと放蕩《のら》を子に持つ親ばかり不幸なるは無し、切られぬ縁の血筋(11)といへばあるほどの悪戯《いたづら》を尽して瓦解《ぐわかい》の暁に(12)落こむはこの淵、知らぬと言ひても世間のゆるさねば(13)、家の名をしく我が顔はづかしきに、惜しき倉庫《くら》をも開くぞかし。それを見込みて石之助、
「今宵を期限の借金がござる。人の受けに立ちて(14)判を為《し》たるもあれば、花見のむしろに狂風一陣(15)、破落戸《ごろつき》仲間にやる物をやらねばこの納まりむづかしく、我れは詮方なけれどお名前に申わけなし」
などゝ、つまりは此金《これ》の欲し(16)と聞えぬ。母は大方かゝる事と今朝よりの懸念うたがひなく、「幾金《いくら》とねだるか、ぬるき(17)旦那どのゝ処置はがゆし」と思へど、我れも口にては勝がたき石之助の弁に、お峯を泣かせし今朝とは変りて、父が顔色いかにとばかり、折々見やる尻目(18)おそろし。父は静かに金庫の間へ立ちしが、頓《やが》て五十円束一つ持ち来て、

(10)「三界」は過去・現在・未来の三世で、「首械」は正確には首枷で、罪人の首にはめ自由を束縛する刑具のこと。子を思う親の心にひかれて、親の自由は一生涯にわたって縛られることをいう。
(11)親子の血縁は切ることが出来ない。
(12)道楽をし尽くして、堕落の果てに。
(13)わが子が「この淵」に落ちたのを知らないと言っても、世間は納得しないから。
(14)人の借金の保証人になって。ここではばくち場ですってんてんになった仲間が貸元から借りた金の保証金。
(15)花札賭博の賭場が荒れるさまを、落花狼藉の場と見立てた。
(16)つまるところは金のことである。
(17)手ぬるい。あまい。
(18)横目。

「これは貴様にやるではなし。まだ縁づかぬ妹《いもと》どもが不憫、姉が良人《おつと》の顔にもかゝる。この山村は代々堅気一方に正直律義を真向にして(19)、悪い風説《うはさ》を立てられた事もなき筈を、天魔(20)の生れがはりか貴様といふ悪者《わる》の出来て、なき余りの無分別に(21)人の懐でも覗うやうにならば、恥は我が一代にとゞまらず。重しといふとも身代は二の次(22)、親兄弟に恥を見するな。貴様にいふとも甲斐はなけれど、尋常《なみなみ》ならば(23)山村の若旦那とて、入らぬ世間に悪評もうけず、我が代りの年礼(24)に少しの労をも助くる筈を、六十に近き親に泣きを見するは罰あたりで無きか。子供の時には本の少しものぞいた奴《やつ》、なぜこれが分りをらぬ。さあ行け、帰れ、何処へでも帰れ、この家に恥は見するな」
とて父は奥深く這入りて、金は石之助が懷中《ふところ》に入りぬ。

(19)正直と義理堅さ一筋で、他のことにはわき目もふらない。
(20)正法を害して仏道を妨げ、人心を悩乱して智慧・善根をさまたげる悪魔。欲界六天の頂上、第六天をつかさどるという。
(21)金がないために前後を顧みずにしでかすこと。
(22)大切だといっても、財産は二の次。
(23)ふつうだったら。
(24)年始のあいさつまわり。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。



《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・島田雅彦]から

その日も暮れ近く、主人がご満悦で釣りから帰ると、奥さんも続いて帰宅、安産の喜びで送ってきた運転手にまで愛想よく、今夜こっちが片付いたら、また見舞いに行きます、あしたは早い時間に妹の誰か一人を手伝いに行かせるって伝えて下さいな、いやはや御苦労さまでした、とチップを渡し、やれやれ忙しい、誰か暇な人の体を半分借りたいわ、お峰、小松葉はゆでておいた? 数の子は洗った? お父さんはお帰りになった? 若旦那は? と最後の一言だけは小声で、まだと聞くと額に皺を寄せた。

石之助はその夜はおとなしく、新年の三ガ日くらいは家にいて、祝いたいところだが、ごらんの通り、締まりのない男だ、堅苦しく袴をはいた連中にあいさつするのは面倒だ、説教も聞き飽きた、親類には美人もいないので会う気も起きない、裏屋のダチと今夜約束もあるし、ひとまず帰るわ、いずれ機会を改めてもらいにくるけど、めでたいこともあったようだから、お歳暮にいくらもらえるかな、という、朝から寝込んで父の帰りを待っていたのは金策のためだったわけだ、子は三界の首枷なんていうけれども、放蕩息子を持った親は不幸だね、切っても切れない血の縁というのは、道楽のかぎりを尽して落ちるところまで落ちた子も知らんぷりできないってこと、世間体もあるし、惜しいと思いつつも蔵を開け、いくらかの金を遣るわけさ、それを見越して石之助は、今夜が制限の借金があってね、つい保証人になって判をついたはいいが、賭場が荒れてゴロッキどもにやるもんをやらないと納まりがつかなくてね、オレはともかく家の名に傷がつくからね、などと並べ立て、要するに金をくれというわけだ、母親はどうせそんなことだろうと思った通りで、いくらねだる気か、甘やかす旦那のやり方が歯痒いが、ロでは石之助には敵わないので、お峰を泣かせたけさとは違って、父親の顔色をうかがう横目は恐ろしい、

父は静かに金庫の間へ立ち、やがて五十円の束を一つ持ってきて、これはおまえにやるんじゃないぞ、悪い噂でも立ったら、まだ嫁入り前の妹たちが迷惑するし、姉の夫の顔もつぶすことになる、この山村家は代々堅気の筋で、正直、律義を通してきたんだ、悪い なんて立てられたこともない、悪魔の生まれ変わりか、おまえみたいなワルが金に困って盗みを働きでもしたら、恥は 一代にとどまらない、財産も大事だが、親兄弟に恥をかかせるな、おまえにいっても無駄だろうが、普通なら山村家の若旦那として、世間じゃ後ろ指もさされず、私の代わりに年始のあいさつ回りをして少しは助けてくれるもんだが、六十近い親を泣かせて罰あたりな奴だ、子供の頃は少しは本も読んだろう、なぜこんなことがわからないんだ、さあ行け、帰れ、何処へでも帰れ、この家に恥をかかせるな、と父、奥に引っ込み、金は石之助の懐(ふところ)に入った。

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