大つごもり⑦
せっぱつまったお峯は、硯の引き出しからお札を二枚、盗み出してしまいます。
「お母《はゝ》さまに直様《すぐさま》お出下さるやう、今朝よりのお苦るしみに、潮時(18)は午後、初産なれば旦那とり止めなくお騷ぎなされて、お老人《としより》なき家なれば混雑お話しにならず、今が今お出でを」とて、生死の分目といふ初産に、西応寺(19)の娘がもとより迎ひの車、これは大晦日とて遠慮のならぬ物なり。家のうちには金もあり、放蕩《のら》どの(20)が寐ては居る、心は二つ、分けられぬ身なれば恩愛の重きに引かれて、車には乗りけれど、かゝる時気楽の良人が心根にくゝ、「今日あたり沖釣りでもなき物を」と、太公望がはり合ひなき人(21)をつくづくと恨みて、御新造いでられぬ。
(18)姉娘の出産予定時。
(19)いまの港区西応寺町。一葉は、父の死後、母妹とともに西応寺60番地に住む次兄、虎之助のもとへ一時、身を寄せた。
(20)石之助をさしている。金を持ち出されることを案じている。
(21)釣好きで頼りにならない人。「太公望」は、中国・周の政治家で、春秋斉の始祖。渭水で釣りをしていて文王に見出されてその師となり、文王、武王をたすけて殷を滅ぼした。周の祖太公が待ち望んでいた賢者という意。故事から転じて、釣りの好きな人をいう。
行きちがへに三之助、此処と聞きたる白金台町、相違なく尋ねあてゝ、我が身のみすぼらしきに姉の肩身を思ひやりて、勝手口より怕々《こはごは》のぞけば、誰れぞ来しかと竈《かまど》の前に泣き伏したるお峯が、涙をかくして見出せばこの子(22)、おゝよく来たとも言はれぬ仕義(23)を何とせん。
「姉さま這入つても叱かられはしませぬか、約束の物は貰つて行かれますか。旦那や御新造によくお礼を申して来いと父さんが言ひました」
と、子細を知らねば喜び顔つらや。
「まづまづ待つて下され、少し用もあれば」
と馳せ行きて内外《うちと》を見廻せば、嬢さまがたは庭に出て追羽子《おひはご》(24)に余念なく、小僧どのはまだお使ひより帰らず、お針(25)は二階にてしかも聾なれば子細なし(26)、若旦那はと見ればお居間の炬燵《こたつ》に今ぞ夢の真最中《まつたゞなか》、「拝みまする、神さま仏さま。私は悪人になりまする、なりたうはなけれどならねばなりませぬ。罰をお当てなさらば私一人、遣《つか》ふても(27)伯父や伯母は知らぬ事なればお免《ゆる》しなさりませ。勿躰なけれどこの金ぬすまして下され」と、かねて見置きし硯の引出しより、束のうちを唯二枚(28)、つかみし後は夢とも現とも知らず、三之助に渡して帰したる始終を、見し人なしと思へるは愚《おろ》かや(29)。
(22)涙を気づかれないようにして、涙にくもった眼でよく見れば。「この子」は三之助。
(23)仕儀。ものごとの成り行き。
(24)羽根つき。
(25)雇われて針仕事をする女。
(26)差し支えない。
(27)盗んだ金を使っても。
(28)札束(一円紙幣)を二枚。つまり二円。
(29)作者の声として述べている。草子地。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・島田雅彦]から
お母さんはすぐ来て下さい、けさから陣痛が始まり、午後には生まれます、初産なので旦那さんはあたふたするばかりでどうにもなりません、手伝ってくれる老人もいないので大混乱です、今すぐ来て下さい、と生きるか死ぬかの初産で、西応寺に住む娘のところから迎えの車が来た、こればかりは大晦日だといって後まわしにはできす、かといって家には金もあり、放蕩息子も寝ている、行くべきか、残るべきか心は真っぷたつ、でも体は分けられず、娘を心配して車に乗ったものの、こんな時にのんびりしている夫が憎らしく、何もきよう沖釣りに行くこともないのに、と頼りにならない太公望を恨みながら、出て行った。
入れ違いに三之助が、ここだと聞いて白金台町の家を迷わず訪ねてくる、みすぼらしい自分の身なりを気にし、姉の体面も考えて、勝手口をこわごわのぞき込む。コンロの前で泣いていたお峰が誰か来たと、涙を拭いて見れば、三之助がいる、よく来たねともいえない、どうしよう、三之助は、姉さん入っても叱られない? 約東のものはもらって行けるの? この家の人たちによく礼をいっといてって父さんにいわれたよ、と何も知らずに喜んでいる、お峰はその顔を見るのがつらい、まあちょっと待ってて、少し用があるから、と慌てて内と外を見回してみると、娘たちは庭で羽根っきに余念がなく、使用人はまだお使いから帰らない、お針は二階にいるけど、耳がないから大丈夫、若旦那はといえば、居間の炬燵で夢のまっ只中、お願い、神さま仏さま、私は悪人になります。なりたくはないけれど、ならなくちゃならないの。罰を当てるなら私一人にして、伯父や伯母は知らないでお金を使うんだから許してあげて、ごめんなさい、 このお金盗ませて下さい、と前から見て知っていた硯の引き出しから、札東のうち二枚だけ引き抜いたら、あとは無我夢中、三之助にそれを渡して帰した一部始終を誰にも見られなかったと思ったのはバカだった 。
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