大つごもり⑥
伯父と約束した日時が近づいて、お峯は、奉公先の奥さんにおそるおそるお金のお願いをしようとします。
正午《ひる》も近づけばお峯は伯父への約束こゝろもとなく、御新造が御機嫌を見はからふに暇《いとま》もなければ、僅かの手すきに頭《つむ》りの手拭ひ(1)を丸めて、
「このほどより願ひましたる事、折からお忙がしき時、心なきやうなれど、今日の昼る過ぎにと先方《さき》へ約束のきびしき金とやら、お助けの願はれますれば、伯父の仕合せ私の喜び、いついつまでも御恩に着まする」
とて手をすりて頼みける。最初《はじめ》いひ出し時にやふや(2)ながら結局《つまり》は宜しと有し言葉を頼みに、又の機嫌むつかしければ(3)、五月蠅《うるさく》いひては却《かへ》りて如何と、今日までも我慢しけれど、約束は今日と言ふ大晦日のひる前、忘れてか何とも仰せの無き心もとなさ、我れには身に迫りし大事と言ひにくきを我慢してかく(4)と申ける。御新造は驚きたるやうの惘《あき》れ顏して、
「夫れはまあ何の事やら、成ほどお前が伯父さんの病氣、つゞいて借金の話しも聞ましたが、今が今私しの宅《うち》から立換へようとは言はなかつた筈、それはお前が何ぞの聞違へ、私は毛頭《すこし》も覺えの無き事」
と、これが此人の十八番(5)とはてもさても情なし。
(1)あねさんかぶりの手拭。
(2)あやふや。はっきりしない。
(3)それから、もう一度の機嫌が悪いので。
(4)二円を手にするには、もう一度迫らなければならない。
(5)いちばん得意とすること。得意の芸。おはこ。
花紅葉(はなもみぢ)うるはしく仕立し娘たちが春着の小袖(6)、襟をそろへて褄《つま》(7)を重ねて、眺めつ眺めさせて喜ばんものを、「邪魔ものゝ兄が見る目うるさし。早く出てゆけ、疾《と》く去《い》ね」と思ふ思ひは口にこそ出さね、もち前の疳癪(かんしやく)したに堪えがたく(8)、智識の坊さま(9)が目に御覧じたらば、炎につゝまれて(10)身は黒烟りに、心は狂乱の折ふし、言ふ事もいふ事(11)、金は敵薬(12)ぞかし、現在うけ合ひしは我れに覚えあれど(13)何のそれを厭(いと)ふ事かは。
「大方お前が聞ちがへ」
と立きりて(14)、烟草《たばこ》輪にふき、私は知らぬと済しけり。
(6)正月用の晴着。
(7)着物のすその左右両端の部分。
(8)「した」は心の中。表にあらわさず、心中に抑え込んでおくことができないので。
(9)智徳の優れた僧。悟りをひらいた僧。名僧。
(10)石之助への憎悪の炎が燃えつのって。
(11)よりによって借金のことを言い出すなんて。言いに言ったり。
(12)「敵薬」は配合によって毒となる薬。また、食い合わせて毒となるもの。時と場合で金は、恐ろしい毒のような働きをする。 「金が敵」(金銭のために災いを受けたり、身を滅ぼしたりするという諺)と「敵薬」は掛詞。
(13)受けあったということは、自分にも現に覚えはあるが、どうしてそんなことにかまっていられるだろう。
(14)きっぱり言い負かす。この場合、相手を威圧してものを言わせない。
「ゑゝ大金でもある事か。金なら二円、しかも口づから承知して置きながら、十日とたゝぬに耄《まう》ろくはなさるまじ。あれ、あの懸け硯(15)の引出しにも、これは手つかずの分と一ト束、十か二十か(16)悉皆《みな》とは言はず、唯二枚にて伯父が喜び伯母が笑顏、三之助に雑煮のはしも取らさるゝと言はれしを思ふにも、どうでも欲しきは彼の金ぞ、恨めしきは御新造」とお峯は口惜しさに物も言はれず、常々をとなしき身は理屈づめにやり込る術もなくて、すごすごと勝手に立てば、正午の号砲《どん》(17)の音たかく、かゝる折ふし殊更胸にひゞくものなり。(15)掛け子のある硯箱。掛け子に硯、墨、水入れなどを入れ、下の引き出しに小物などを入れる。
(16)一円札で10枚か20枚か。10円か20円か。
(17)毎日正午を知らせるため、東京・丸の内で大砲を打った。その音から「どん」と呼ばれた。明治4年9月9日に始まり、昭和4年にサイレンに代ったという。
ころあい、よいおり。姉娘の出産予定時。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」をどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・島田雅彦]から
正午(ひる)近く、お峰は伯父との約束が心配になり、奥さんの機嫌を見はからう暇もなく、ちょっと手が空いた隙に頭にかぶった手拭いをとり、このあいだからお願いしている件ですが、こんな忙しい時に何ですが、きょうの昼過ぎに先方に持っていかないとまずいんです、お金を都合していただけると、伯父も幸い、私も嬉しく思います、ご恩は一生忘れませんから、と手をすりすり頼んでみた、最初このことを切り出した時、あやふやながら、つまりはいいだろうといった奥さんの言葉を頼りにして、気分屋の奥さんに下手に念を押してうるさがられまいと、きようまでいわずに我慢していたけれど、伯父との約束はきよう大晦日の昼前、忘れてしまったのか何もいってくれないのが心配で、奥さんにはどうでもよくても、こっちはさし迫った身、いい出しにくいのを思い切っていっているのに、向うはびっくりしたような顔で、それは一体何のことかしら、そういえばあんたの伯父さんが病気で、借金があるとか聞いたけれど、こっちで立て替えようなんていわなかったはすよ、あんたの聞き違いじゃないの、私には全く覚えがないね、という、これがこの人の得意の手だったんだと気づいてもあとの祭。
花紅葉の柄も美しく仕立てた娘たちの春着の小袖を開げて、襟をそろえたり、褄を重ねたりして、一緒に眺めて楽しもうというのに邪魔者の兄の目がうるさく、早く出てゆけ、とっとと消えちゃえ、と思う気持ちを口にこそ出さないけれど、持ち前の癇癪は押さえ切れず、徳ある坊さんが見たら、炎に包まれて煙に体を巻かれて、心は狂乱のさなか、よりによって借金の話とは、さらに毒を盛るようなもの、請け合ったことは自分にも覚えがあるけど、いちいち構っちゃいられない、大方あんたの聞き違えでしょ、といい切って煙草をふかし、知らんぷり。
大金なもんか、たったの二円ぽっきり、自分のロで承知しておきながら、十日も経ってないのに耄碌したんじゃないでしようね、ほら、あのかけ硯の引き出しには手つかずの札束があるじゃない、十円か二十円、全部とはいわない、せめて二枚! それで伯父が喜び、伯母の笑顔が見られ、三之助に雑煮の箸も持たせてやれる、そう思ったらどうしてもあの金が欲しい、恨んでやる、悔しい、でも何もいえない日頃から大人しくしている身では理詰めでやり込める術もなく、すごすご台所に立つと、ちょうどそこへ正午の時報、こんな時はその音がズキッと響く。
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