大つごもり④
お峯の育ての親である伯父の家の借金ぶりがあかされていきます。
お峯は三之助を抱きしめて、(1)なりは大きくても、やはり八歳の体力しかないのに。
「さてもさても世間に無類の孝行。大がらとても八歳《やつ》は八歳(1)、天秤肩にして痛みはせぬか、足に草鞋くひ(2)は出来ぬかや。堪忍して下され、今日よりは私も家に帰りて伯父様の介抱、活計《くらし》の助けもしまする、知らぬ事とて今朝までも、釣瓶の繩の氷を愁《つ》らがつたは勿躰ない、学校ざかりの年に蜆を担がせて姉が長い着物(3)きてゐらりようか。伯父さま暇《いとま》を取つて下され、私は最早奉公はよしまする」
とて取乱して泣きぬ。三之助はをとなしく、ほろりほろりと涙のこぼれるを、見せじとうつ向きたる肩のあたり、針目(4)あらはに衣《きぬ》破《や》れて、此肩《これ》に担ぐか見る目も愁《つ》らし。安兵衛はお峯が暇を取らんと言ふに、
「それは以ての外。志しは嬉しけれど帰りてからが女の働き(5)、それのみか御主人へは給金の前借もあり、それッ、と言ふて帰られる物ではなし、初奉公《うひぼうこう》が肝腎、辛棒がならで戻つたと思はれてもならねば、お主《しゆう》大事に勤めてくれ。我が病も長くはあるまじ、少しよくば気の張弓(6)、引つゞいて商ひもなる道理、あゝ今半月の今歳が過れば、新年《はる》は好き事も来たるべし。何事も辛棒辛棒、三之助も辛棒してくれ、お峯も辛棒してくれ」
とて涙を納めぬ。
(2)わらじのひもが足に食い込んでできた擦り傷。わらじずれ。
(3)短い労働着ではなく、ふつうの着物。
(4)縫い目。
(5)帰ってきたところで、女の働きでは大した収入は望めない。
(6)気にも張りが出てくる。「気を張る」と「弓を張る」を掛け、次の「引つゞいて」の「引」の援護にした。
珍らしき客に馳走は出来ねど好物の今川焼(7)、里芋の煮ころがしなど、沢山たべろよと言ふ言葉が嬉し、苦労はかけまじと(8)思へど見す見す大晦日に迫りたる家の難義、胸に痞《つか》への病は癪(9)にあらねどそもそも床に就きたる時、田町の高利かしより三月しばり(10)とて十円かりし、一円五拾銭は天利とて(11)手に入りしは八円半、九月の末よりなれば此月はどうでも約束の期限なれど、この中にて(12)何となるべきぞ、額を合せて談合の妻は、人仕事(13)に指先より血を出して日に拾銭の稼ぎもならず、三之助に聞かするとも甲斐なし。お峯が主は白金《しろかね》の台町《だいまち》に貸長屋の百軒も持ちて、あがり物(14)ばかりに常綺羅《じやうきら》(15)美々しく、我れ一度お峯への用事ありて門まで行きしが、千両(16)にては出来まじき土蔵の普請、羨やましき富貴《ふうき》と見たりし。その主人に一年の馴染(17)、気に入りの奉公人が少々の無心を聞かぬとは申されまじ。
(7)小麦粉の皮であんを包み、銅板で焼いた菓子。江戸今川橋辺で始まった。
(8)ここからは、伯父のお峯への頼み。
(9)胃けいれん。胸がつかえたように悩むのは心配事のためで、胃けいれんではない、の意。
(10)3カ月後を返済の期限とする。
(11)天引きの利子。貸金から前もって利息を天引きする。
(12)このようなありさまで。
(13)頼まれてする仕事。ここでは内職の仕立物。
(14)不労所得。
(15)ふだん、いい着物を身にまとっている。
(16)当時の千円。この作品執筆時に一葉は久佐賀義孝に千円の借金を申し込んでいる。
(17)お峯が山村家に奉公して一年たったことがわかる。
この月末に書きかへ(18)を泣きつきて、をどり(19)の一両二分(20)をこ此処に払へば、又三月の延期《のべ》にはなる。かくいはゞ欲に似たれど、大道餅(21)買ふてなり三ヶ日の雑煮に箸を持せずば、出世前の三之助に親のある甲斐もなし、晦日までに金二兩、言ひにくゝ共この才覚(22)たのみ度よしを言ひ出しけるに、お峯しばらく思案して、
「よろしうござんす慥《たし》かに受合ひました。むづかしくはお給金の前借にしてなり願ひましよ。見る目と家内《うち》とは違ひて、何処にも金銭の埓は明きにくけれど(23)、多くではなし、それだけで此処の始末がつくなれば、理由《わけ》を聞いて厭やは仰せらるまじ、それにつけても首尾(24)そこなうてはならねば、今日は私は帰ります。又の宿下りは春永《はるなが》(25)、その頃には皆々うち寄つて笑ひたきもの」とて此金《これ》を受合ける。
「金は何として越《おこ》す(26)、三之助を貰ひにやろか」
とあれば、
「ほんにそれでござんす。常日《つね》さへあるに、大晦日といふては私の身に隙はあるまじ。道の遠きに可憐《かわい》さうなれど、三ちやんを頼みます。昼前のうちに必らず必らず支度はして置まする」
とて、首尾よく受合ひてお峯は帰りぬ。
(18)返済期間を延ばすために借用証書を書き改めること。
(19)借用証書を書き換える際は、返済期限の月の分の利息を二重に支払わなければならなかった。
(20)江戸時代の金の単位に、庶民の感覚で言い直している。1円50銭。
(21)大道商人が売る正月用の餅。間に合わせの年越し。
(22)知恵や工夫で事を成就っせること。西鶴の用語。
(23)借金沙汰はうまくいきにくいけれど。
(24)ここでは借金の申し入れ。帰宅が遅れて主人にしかられては、事がうまく運ばない。
(25)「春永」は、新春の日の永いころ。奉公人の休暇は正月と7月16日の年2回が普通で、
(26)よこす。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・島田雅彦]から
お峰は三之助を抱きしめて、あんたは本当に親孝行だね、体は大きくても八歳は八歳だ、天びん棒を担いで肩は痛くないかい、足に草鞋ずれはできないかい、 ごめんね、きょうからここに帰ってきて伯父さんの世話をしながら暮しを助ける、 知らなかったとはいえ、けさまでつるべの縄の氷を冷たがっていたなんて、 学校に行ってる子にしじみを担がせて、姉が長い着物を着てられない、伯父さん、もう奉公はやめるから、一言いってよ、とつい泣きじゃくってしまった、 三之助は大人みたいに、涙がこばれるのを見られまいとうつ向いている、肩の縫い目が破れていて、そこに天びん棒を担いでいるんだと思ったら、つらくなる、安兵衛はお峰が暇を取るというので、 それはもってのほかだよ、おまえの気持ちは嬉しいが、家に戻ったところで女の稼ぎはいくらにもならないし、第一先方には給料の前借りもしてる、それっといって帰れるもんじゃない、最初が肝腎なんだ、我慢できずに戻ったと思われちゃ駄目だ、主人を大事に思って働いてくれ、私の病気もいつまでも長引きはしない、少しよくなれば、気も張り、じきに商売もできるようになる、今年もあと半月だ、新年にはいいこともあるさ、何事も辛抱、三之助も辛抱してくれ、お峰もな、と涙をこらえる。珍しいお客なのにごちそうはできないけど、好物の今川焼や里芋の煮ころがし、たくさん食べて、といわれて嬉しくなる、苦労はかけまいと思うものの、みすみす大晦日を前にしての家の難儀に胸をつまらせるのは、病気のせいというより心配のため、そもそも病床についた時、田町の高利貸しから三ケ月後に返済の約東で十円借り、一円五十銭は天引きの利息で手にしたのは八円半、九月の末に借りて、今月は返済の期限だけど、こんな暮しぶりではどうにもならない、額をつき合せて相談する妻は、指から血を出しながら内職をしているが日に十銭の稼ぎにもならない、こんな話を三之助にしてもやつぱりどうにもならない、お峰の主人は白金台町に貸し長屋を持っていて、そこの家賃でいつもいい服を着ている、 一度お峰に用かあって門まで行ったことがあったが、千円出してもできないくらいの立派な土蔵があって、羨ましいかぎりの羽振りだったけれども、そこの主人にお峰は一年仕え、しかも気に入られたとあれば、多少の援助は期待できるかも知れない 、今月末に借用証書の書き換えを泣きついて、おどり歩の一円五十銭を払えば、三月まで待ってもらえる、何だか欲張っているみたいだが、大道餅を買うなりしてでも正月三か日の雑煮の箸を持たせなかったら、世に出る前の三之助はみなし子も同然、晦日までに二円、主人に何とか都合してもらえないものか、いい出しにくいだろうが、と伯父がいい出すので、お峰はしばらく考えて、わかった、頼んでみる、金の都合が難しければ、給料を前借りさせてもらう、お金って外から見るのと、家内の事情は違うもんだけど、金額も少ないし、 その程度のお金で万事うまくいくなら、わけを話して納得してもらう、それでもうまくやらなくちゃいけないから、きょうはもう帰るわ、今度暇がもらえるのは正月、その頃にはみんな笑顔でいたいわね、と金策を約束しちゃった。お金はどうやって受け取る? 三之助をもらいにやらせようか、うん、そうして、ふだんも忙しいのに大晦日となれば、ねえ、遠くてかわいそうだけど、三ちゃんを頼みます、昼前までに必ず用立てしとくから、と請け負って、お峰は帰った。
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