大つごもり②
師走のあわただしい、東京の貧しい庶民の生活ぶりがつづられていきます。
秋より只一人の伯父が煩ひて、商売の八百や店もいつとなく閉ぢて、同じ町ながら裏屋住居《ずまゐ》になりしよしは聞けど、六づかしき主《しゆう》を持つ身の、給金を先きに貰へばこの身は売りたるも同じ事、見舞にと言ふ事もならねば心ならねど、お使ひ先の一寸の間とても、時計を目当にして幾足幾町《いくあしいくてう》とそのしらべの苦るしさ(1)、馳せ拔けても、とは思へど悪事千里(2)といへば、折角の辛棒を水泡《むだ》にして、お暇ともならば(3)、弥々《いよいよ》病人の伯父に心配をかけ、痩世帯(4)に一日の厄介も気の毒なり、その内にはと手紙ばかりをやりて、身は此処《ここ》に心ならずも日を送りける。
(1)お峯を使いに出したあと、女主人が少しの間でも、歩く距離の所要時間を厳しく研鑽している。
(2)「悪事千里を行く」の略。中国・宋の孫光憲の『北夢瑣言』の「好事不出門、悪事行千里」による。悪い行ないや悪い評判はたちまち世間に知れ渡るということ。
(3)解雇されるようなことにでもなれば。
(4)貧しい暮らし。貧乏所帯。
師走の月は世間一躰《たい》物せわしき中を、こと更に選《え》らみて綾羅《きら》(5)をかざり、一昨日《おととひ》出そろひしと聞く某《それ》の芝居(6)、狂言(7)も折から面白き新物の、これを見のがしてはと娘共の騷ぐに、見物は十五日、珍らしく家内中《うちゞう》との触れ(8)になりけり、このお供を嬉しがるは平常《つね》のこと、父母《ちちはは》なき後は唯一人の大切な人が、病ひの床に見舞ふ事もせで、物見遊山(9)に歩くべき身ならず、御機嫌に違ひたらばそれまでとして、遊びの代りのお暇《いとま》を願ひしに、流石は日頃の勤めぶりもあり、一日すぎての次の日、
「早く行きて早く帰れ」
と、さりとは気まゝの仰せに、
「有難うぞんじます」
と言ひしは覚えで、頓《やが》ては車の上に(10)、小石川はまだかまだかと鈍《もど》かしがりぬ(11)。
(5)あやぎぬとうすぎぬ。また、美しい衣服。「綺羅」と書くべきところをルビで示している。「綾羅をかざり」は、美しい衣服をまとうこと。
(6)明治時代の中ごろ、九代目団十郎と五代目菊五郎の全盛期で互いに張り合い、初日から各幕が出そろうことはめずらしかったことを指しているという。
(7)歌舞伎狂言。能狂言や歌舞伎舞踊に対して、歌舞伎で演じられる芝居をいう。
(8)一家そろって、と主人がみなに告げ知らせること。
(9)物見と遊山。気晴らしに、見物や遊びに行くこと。
(10)すぐさま人力車に乗って。「頓て」は、すぐに、 ただちに。
(11)人力車の速度が遅く感じられて、じれったく思った。
初音町《はつねてう》(12)といへば床しけれど、世をうぐひすの貧乏町(13)ぞかし。正直安兵衞とて(14)、神はこの頭《かうべ》に宿り給ふべき大薬罐《おほやくわん》(15)の額ぎはぴかぴかとして、これを目印に田町より菊坂あたりへかけて、茄子大根《なすびだいこ》の御用(16)をもつとめける。(12)旧小石川区地区小石川初音町(現・文京区小石川1~2丁目)。明治2(1869)年に小石川源覚寺門前と同所北向いの小石川下富坂町飛地を合併して成立した。町名をウグイスの初音にかけて、床しいけれどと言った。
(13)「うぐいす」の「う」を「憂し」の「憂」にかけた。世の中を憂く暮して貧乏人の住む町。
(14)「正直の頭に神宿る(正直な人には必ず神が味方し、守ってくれる。)」ということわざをふまえている。
(15)毛髪がなくなって薬罐のようになめらかになった頭。はげあたま。
(16)ナスや大根を売る行商の八百屋。
薄元手を折かへす(17)なれば、折から直《ね》の安うて嵩《かさ》のある物より外は棹《さを》なき舟に乘合の胡瓜(18)、苞《つと》(19)に松茸の初物などは持たで、八百安が物は何時も帳面につけた樣な(20)と笑はるれど、愛顧《ひいき》は有がたきもの、曲りなりにも親子三人の口をぬらして(21)、三之助とて八歳《やつ》になるを五厘学校(22)に通はするほどの義務《つとめ》もしけれど(23)、世の秋つらし九月の末、俄かに風が身にしむといふ朝、神田(24)に買出して荷を我が家までかつぎ入れると其まゝ、発熱につゞいて骨病み(25)の出しやら、三月ごしの今日まで商ひは更なる事(26)、段々に喰《た》べへらして天秤(27)まで売る仕義になれば、表店《おもてだな》の活計《くらし》たちがたく、月五十錢の裏屋に人目の恥を厭ふべき身ならず、又時節があらば(28)とて、引越しも無惨や、車に乗するは病人ばかり、片手に足らぬ荷をからげて(29)、同じ町の隅へと潜みぬ。
(17)乏しい資金を運用して、仕入れては売り、売っては仕入れる。
(18)初もののきゅうりは、小さな舟形の容器に入れて売ることをしゃれて言っている。
(19)わらなどを束ねて、その中に魚・果実などの食品を包んだもの。松茸の初物をこれに入れてある。
(20)決まり切ったもの、同じもの。
(21)どうやら食べて。
(22)下層民の子を教えた小学校の俗称。学費が一日五厘だったことによるか。一般に貧民学校と呼ばれた。
(23)義務教育も受けさせていたが。
(24)神田区。かつて神田区須田町(現・千代田区神田須田町)には、江戸時代から昭和時代初期にかけて270年間にわたって神田青果市場=写真=があった。
(25)神経痛。
(26)商売は言うまでもないこと。商売ができないことを述べている。
(27)天秤棒。
(28)また運が巡ってきたら表店に出られるだろう。
(29)片手で持つにも足りないほどのわずかな荷物をたばねて。
お峯は車より下りて其処此処《そここゝ》と尋ぬるうち、凧、紙風船などを軒につるして、子供を集めたる駄菓子やの門に、もし三之助の交じりてかと覗けど、影も見えぬに落胆《がつかり》して、思はず往来《ゆきき》を見れば、我がゐるよりは向ひのがはを、痩《やせ》ぎすの子供が薬瓶もちて行く後姿、三之助よりは丈も高く餘り痩せたる子と思へど、様子の似たるにつかつかと駆け寄りて顔をのぞけば、(30)焼芋屋。
「やあ姉さん」
「あれ三ちやんであつたか、さても好い処で」
と伴なはれて行くに、酒やと芋や(30)の奧深く、溝板《どぶいた》がたがたと薄くらき裏に入れば、三之助は先へ駆けて、
「父《とゝ》さん、母《かゝ》さん、姉さんを連れて帰つた」
と門口より呼び立てぬ。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
《現代語訳例》『にごりえ 現代語訳・樋口一葉』(河出書房、2022.4)[訳・島田雅彦]から
秋からたった一人の伯父が病気で倒れ、商売の八百屋の店もたたんで、同じ町の裏屋住まいになったと聞いていたけど、気難しい主人に仕える身だし、まして給料前借りなんてしたら、この身を売ったも同然だし、なかなか見舞いに行きたいといい出せない、奥さんはお峰が使いに出たわずかの時間も時計とにらめつこをして所要時間と距離を厳しく計っているし、いっそ抜け駆けしてやろうとは思うものの、悪い評判は足が速くて、せっかく今まで辛抱してきたのが無駄になっちゃうし、クビになったらそれこそ病人の伯父に心配をかけちゃうし、細々暮す家族に一日でも厄介かけるのは気の毒だし、そのうちどうにかしようととりあえず、手紙を書き、仕方なく山村家で日々を送った。師走は世間をせわしなくするけど、娘たちは衣装を選り好みして着飾っている、というのもおとといから新作の芝居や狂言をやっていて、面白いらしいので、見逃したくないと娘たちが騒ぎ、十五日に見物に行くことになった、それも珍しく一家総出、本当はおともするのを喜ぶところだけど、父母を亡くしたあとは一人きりの身内が病の床にいるのに見舞いもせす、遊びに行くのも何だし、 主人の機嫌損ねたらそれまでと思って、芝居見物を遠慮する代わりにお暇を下さいと頼んだら、日頃の行ないがいいので、 一日おいて次の日、早く行って早く帰って来い、とお許しが出た、でも気まぐれを起こされちゃ敵わないから、ありかとうございますというが早いか、小石川はまだかまだかと車の上でイライラしてた。
初音町といえば上品そうだけど、世泣き鳥の住む貧乏町なの、正直安兵衛なんて人がいて、神が宿るその大やかんみたいなピカピカ頭を目印にして、田町から菊坂あたりにかけて、茄子や大根を売っていたんだけれども、少ない元手でやりくりする商売なので、安くて量の多いものばかり売って、船形の器に盛ったきゅうりや、わら包みの松茸なんてない、八百安の品は紙に描いたみたいにいつも同じだ、と笑われるけれど、お得意さんはありがたいもので、何とか親子三人の生計を立て、八歳になる息子三之助を貧民学校に通わせたりしていたんだけれども、にわかに風が身にしみる九月のある朝、神田で仕入れた荷を我が家にかつぎ入れるとそのまま、熱を出し、神経痛にやられた、それから三ヶ月たった今まで商売はできない、生活も切りつめ、しまいには天秤まで売る羽目になり、店じまいするしかなくなった、人目を恥じてもいられず月五十銭の裏屋に、また店に戻るつもりで引っ越したんだけど、荷物なんて片手で充分、車に乗せたのは病人だけという惨めなありさまで、同じ町の隅に引っ込んだ、さて、お峰は車から下りて、伯父の住まいをそこここと尋ねているうち、凧や紙風船などを軒につるした子供相手の駄菓子屋の前に、三之助がいるかも知れないとのぞいてみたけれど、いないのでが っかりして思わず往来を見ると、反対側を痩せぎすの子どもが薬瓶を持って歩く後姿があって、三之助にしては背が高く痩せていると思ったが、見た目はそっくりで、駆け寄って顔をのぞき込むと、やあ、姉さん、というので、あら三ちゃんだったの、いいとこで会ったわ、といって、一緒に酒屋と焼芋屋の奥深く、溝(どぶ)板がガタガタするする薄暗い路地裏に入ると、三之助は先に走って、父さん、母さん、姉さんを連れて帰ったよ、と門口から呼び立てた。
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