大つごもり①
きょうから『大つごもり』に入ります。1894年(明治27年)12月の『文學界』(第24号)に発表。明治29年に『太陽』(博文館)に再掲載されました。明治27年は、一葉が下谷龍泉寺町(台東区竜泉)から本郷区丸山福山町(文京区西片)へ転居し、荒物雑貨・駄菓子店を営みつつ執筆に専念していたころの作品で、山村家に奉公に出るお峯の大晦日前後を描いています。
井戸は車にて(1)綱の長さ十二尋《ひろ》(2)、勝手は北向きにて師走《しはす》の空のから風ひゆうひゆうと吹ぬきの寒さ、おゝ堪えがたと竈《かまど》の前に火なぶりの一分は一時にのびて(3)、割木《わりき》ほどの事も大台《おほだい》にして(4)叱りとばさるゝ婢女《はした》(5)の身つらや。
(1)車井戸のこと。滑車でつるべを上げ下げする。
(2)一尋は、成人男子が両手を左右へ広げた時の、指先から指先までの長さで、六尺(約1.8m)。十二尋は21.6m。
(3)竈の前で火をいじって暖をとった1分間は、1時間もいたように大げさに言われて。
(4)たきぎのような小さいことも大げさにして。
(5)はしため。雑役に使われる女中。
はじめ受宿《うけやど》(6)の老媼《おば》さまが言葉には
「御子様がたは男女《なんによ》六人、なれども常住(7)家内《うち》にお出あそばすは御総領(8)と末お二人、少し御新造《ごしんぞ》(9)は機嫌かい(10)なれど、目色顔色を呑みこんでしまへば大した事もなく、結句(11)おだてに乘る質《たち》なれば、御前《おまへ》の出様一つで半襟《えり》(12)、半がけ、前垂の紐にも事は欠くまじ。
(6)奉公人の身元をひき受ける家。口入屋。
(7)ふだん。いつも。
(8)あとを継ぐおかた。
(9)町家の富貴な家の妻女、他人の妻女、特に新妻や若女房。武家の妻女。妻をめとるときに居所を新造したところからいわれるようになったともいう。
(10)自分本位で気まぐれな人。「かい」は「買い」。
(11)とどのつまり。結局。物事が最後にゆきついた状態を表わす。
(12)掛襟の一種で、汚れを防ぐために半じゅばん、長じゅばんの襟にかけて用いる幅15cm、長さ90cmの小布。本襟の長さの半分であるところから名がついた。明治から大正にかけてその華麗さから大いに好まれた。
御身代《ごしんだい》は町内第一にて、その代り吝《しは》き事も二とは下らねど(13)、よき事には大旦那が甘い方ゆゑ、少しのほまち(14)は無き事もあるまじ。厭やに成つたら私の所《とこ》まで端書一枚、こまかき事は入らず、他所《よそ》の口を探せとならば足は惜しまじ。何《いづ》れ奉公の秘伝は裏表(15)」(13)ケチなことも一番だが。「御身代は町内第一にて」に対応している。
と言ふて聞かされて、さても恐ろしき事を言ふ人と思へど、何も我が心一つで又この人のお世話にはなるまじ、勤め大事に骨さへ折らば、御気に入らぬ事も無き筈と定めて、かゝる鬼の主《しゆう》(16)をも持つぞかし(17)。
(14)臨時の収入。へそくり。
(15)奉公のコツは、裏表を使い分けて要領よくふるまうこと。
(16)鬼のような惨たらしい主人。
(17)持つのであるよ。強調を表わす係助詞「ぞ」に、間投助詞「かし」が付いて、自分の考えを強く聞き手に向かって主張し、自らも確認する気持を表わす。
目見えの済みて三日の後、七歳《なゝつ》になる嬢さま、踊りのさらひに午後よりとある、その支度は朝湯にみがき上げてと、霜氷る暁、あたゝかき寢床の中《うち》より、御新造灰吹き(18)をたゝきて、これこれと、此詞《これ》が目覚しの時計より胸にひゞきて、三言とは呼ばれもせず、帯より先に襷《たすき》がけ(19)の甲斐がひしく、井戸端に出れば月かげ流しに残りて、肌《はだへ》を刺すやうな風の寒さに夢を忘れぬ。風呂は据風呂にて大きからねど、二つの手桶に溢るゝほど汲みて、十三は(20)入れねばならず、大汗になりて運びけるうち、輪宝《りんぼう》(21)のすがりし曲《ゆが》み歯の水ばき下駄(22)、前鼻緒のゆるゆるになりて、指を浮かさねば他愛の無き(23)やうなりし、その下駄にて重き物を持ちたれば、足もと覚束なくて流し元の氷にすべり、あれと言ふ間もなく横にころべば、井戸がは(24)にて向ふ臑《ずね》したゝかに打ちて、可愛や雪はづかしき膚《はだ》に紫の生々しくなりぬ。(18)タバコ盆についている、タバコの吸い殻を吹き落とすための竹筒。きせるを叩きつけて吸殻を落す。
(19)慣れない女中の緊張したあわてぶりをこう表現している。
(20)13回は。つまり手桶にして26杯。
(21)麻緒やシュロを芯にして細裂きの竹皮を巻いた粗末な鼻緒。
(22)ゆがんだ形に歯のへった台所用の下駄。
(23)手ごたえの無い。
(24)側。(井戸の)側面。
手桶をも其処《そこ》に投出して一つは満足なりしが、一つは底ぬけになりけり、此桶《これ》の価《あたゑ》なにほどか知らねど、身代これが為につぶれるかの様に、御新造の額際《ひたへぎは》に青筋おそろしく、朝飯《あさはん》のお給仕より睨まれて、その日一日物も仰せられず、一日おいてよりは箸の上げ下しに(25)、「この家《や》の品は無代《たゞ》では出来ぬ、主(しゆう)の物とて粗末に思ふたら罰《ばち》が当るぞえ」と明け暮れの談義、来る人毎《ごと》に告げられて、若き心には恥かしく、その後は物ごとに念を入れて、遂ひに麁想《そさう》(26)をせぬやうに成りぬ。
「世間に下女つかふ人も多けれど、山村《やまむら》ほど下女の替る家はあるまじ。月に二人は平常《つね》の事、三日四日に帰りしもあれば、一夜ゐて逃出しもあらん。開闢《かいびやく》以来(27)を尋ねたらば、折る指にあの内儀《かみ》さまが袖口おもはるゝ(28)。思へばお峯(29)は辛棒もの、あれに酷く当たらば天罰たちどころに、この後は東京広しといへども、山村の下女になる物はあるまじ。感心なもの、美事の心がけ」と賞めるもあれば、「第一容貌《きりやう》が申分なしだ」と、男は直《じ》きにこれを言ひけり。
(25)些細なことに口やかましくいうことを形容している。
(26)あやまち。しそこない。軽薄であること。そこつなこと。「麁」は「粗」と同義。
(27)「開闢」は、地の開けたはじめ。女中を使いはじめて以来ということを、天地が開け始めてから、と誇張して言っている。
(28)代った女中を数えているうちに、あのかみさんの袖口がすり切れてしまうのではなかろうか、の意。
(29)この小説のヒロイン。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」からどうぞ。
井戸は滑車つきで、綱の長さが二十二メートル、台所は北向きで、師走のからっ風がひゅうひゅう吹き抜け、あんまり寒くて、カマドの火加減見ながら暖を取れば取ったで、ずっとそうしていたわけでもないのに、一分が一時間になり、木片が大木になり、叱りとばされるんだわ、婢女(はしため)っていうのはね、私をここに紹介した婆さんがいうには、子供は男女合せて六人、いつも家にいるのは長男と末っ子の二人だけ、奥さんはちょっと気まぐれな人だが、要領さえよければどうってことはなく、つまりはおだてにのりやすい性質(たち)なので、あんたの出方ひとつで融通も効く、財産は町内一、その代わりケチでも町内一、幸い大日那が甘いから、多少臨時の小遣いももらえるだろう、勤めが嫌になったら、私に葉書を一枚出しなさい、タラタラ書くことはない、別の働き口を探して欲しけりゃ、そうしてやるし、どのみちサービス業のコツは表と裏の使い分けだよ、というわけで、この人わかってるわと思ったけど、要は心の持ち方ひとつだし、またこの婆さんの世話にはなりたくないし、働くってことが大事なんだと思って努力すれば、気にも入られるだろうと覚悟を決めて、こんな鬼みたいな主人に仕えることになっちゃった、そう、最初に会ってから三日後、七歳になるお嬢ちゃんの踊りのおさらいが午後にあって、その支度で朝湯をわかして、磨いとけといういいつけ、霜の立っ明け方に、奥さんが暖かい寝床の中から灰吹きをたたいて、ほらほらと呼ぶもんだから、目覚まし時計が鳴るよりびっくりして、二言目には帯を締めるより早くきびきびとたすきなんてかけたりして、井戸端に出てみれば、まだ月の光が流しに映っていて、肌を刺すような風の冷たさにさっきまでの夢見心地なんて吹き飛んじゃった、風呂は作りつけで大きくはないけど、いっぱいにするには、二つの手桶にあふれるほど水を汲んで十三回は入れなくちゃいけない。この寒いのに汗だくになって運んでるうち、歯がゆがんだ水仕事用の下駄の鼻緒がズルズルになって、指を浮かさないと履けなくなっちゃって、その下駄で重いものを持ったもんだから、足元がふらついて、流しの氷に足を滑らせて、すってんころりん、横に転んで、井戸の側面で向こうずねをいやっていうほどぶつけちゃった、なんてざま、雪も妬む白い肌に紫のあざが生々しくついちゃった、おまけに転んだ拍子に手桶を投げ出し、一つは無事だったけど、一つは底抜けになっちゃった、桶はいくらしたのか知らないけど、財産を失ったみたいな調子で奥さんは額に青筋を立てるわ、朝食の給仕の時もこっちを睨むわ、その日一日黙り通して、一日経ってからせこく、この家の品はタダではできません、主人の物だからといって粗末に扱っては罰が当りますよ、と説教されたうえ、来る客来る客にきのうの失敗を話すもんだから、乙女心は傷ついちゃって、何をするにも念を入れなくちゃと思ったら、失敗もなくなったわけ、世間には女をこき使う人は多いけれども、山村家ほど女が入れ替わる家もないだろう、月に二人はあたりまえ、三、四日で帰った者もいれば、一晩で逃げ出した者もいるだろう、女を使い始めてからの数を数えたら、折る指にあのかみさんの袖ロもすり切れちまうだろうよ、それを思えばお峰は頑張り屋だ、あの子にひどい仕打ちをしたら、たちどころに天罰が下って、今後東京広しといえども、山村家で働く女はいなくなる、感心なもんだ、見事な心がけだ、と私を賞める人もいたけれど、男は大抵、それに美人だからいうことなし、といった。
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