十三夜⑫
お関は、乗り合わせた人力車の車夫が、昔なじみの高坂録之助であることに気がつきます。
「いゑいゑ私だとて往来で行逢《ゆきあ》ふた位では、よもや貴君《あなた》と気は付きますまい。唯《たつ》た今の先までも、知らぬ他人の車夫《くるまや》さんとのみ思ふてゐましたに、御存じないは当然《あたりまへ》、勿体《もつたい》ない(1)事であつたれど、知らぬ事なればゆるして下され。まあ何時《いつ》からこんな業《こと》して、よくそのか弱い身に障《さわ》りもしませぬか。伯母《おば》さん(2)が田舍《いなか》へ引取られてお出《いで》なされて、小川町《をがはまち》(3)のお店をお廃《や》めなされたといふ噂《うわさ》は、他処《よそ》ながら聞いてもゐましたれど、私も昔しの身でなければ種々と障る(4)事があつてな、お尋ね申すは更なること(5)、手紙あげる事もなりませんかつた(6)。
(1)不都合な。失礼な。
(2)車夫の録之助の母。
(3)現在の神田小川町。猿楽町に近い。
(4)さしさわる。
(5)言うまでもないこと。もちろんのこと。
(6)できませんでした。
今は何処《どこ》に家《うち》を持つて、お内儀《かみ》さんも御健勝《おまめ》(7)か、小兒《ちツさい》のも出来てか、今も私は折ふし小川町の勘工塲《くわんこうば》(8)見物《み》に行《ゆき》まする度々《たびたび》、旧《もと》のお店がそつくり其儘《そのまゝ》同じ烟草店《たばこみせ》の能登《のと》やといふになつてゐまするを、何時《いつ》通つても覗《のぞ》かれて、あゝ高坂《かうさか》の録《ろく》さん(9)が子供であつたころ、学校の行返《ゆきもど》りに寄つては、巻煙草《まきたばこ》のこぼれを貰《もら》ふて、生意気《なまいき》らしう吸立《すいた》てた(10)物なれど、今は何処《どこ》に何をして、気の優しい方《かた》なれば、こんな六《む》づかしい世にどのやうの世渡りをしてお出《いで》ならうか(11)、それも心にかゝりまして、実家へ行く度《たび》に御様子を、もし知つてもゐるかと聞いては見まするけれど、猿楽町《さるがくてう》を離れたのは今で五年の前、根つから(12)お便りを聞く縁がなく、どんなにお懷《なつか》しうござんしたらう」
と我身《わがみ》のほど(13)をも忘れて問ひかくれば、男は流れる汗を手拭《てぬぐひ》にぬぐふて、
(7)おたっしゃ。丈夫。
(8)「勧工」は、工業の奨励の意。多くの商店が一つの建物の中にいろんな品物を並べて売ったところをいう。東京では明治11年に開設された、商店連合による商品陳列即売場。明治、大正を通じて繁盛したが、百貨店にかわっていった。
(9)車夫の名で、高坂録之助。
(10)当時の下町の風俗。粉煙草になったのをキセルで吸って大人びたふりをして遊んだ少女時代を回想した。
(11)おいでであろうか。
(12)まるで。まるっきり。
(13)身分、分際の意。人妻であることをいっている。
「お恥かしい身に落《おち》まして、今は家《うち》と言ふ物もござりませぬ。寐處《ねどころ》は浅草町(14)の安宿、村田といふが二階に転がつて(15)、気に向ひた時は、今夜のやうに遲くまで挽《ひ》く事もありまするし、厭《い》やと思へば、日がな一日(16)ごろごろとして烟《けぶり》のやうに(17)暮してゐまする。貴嬢《あなた》は相変らずの美くしさ、奥様におなりなされたと聞いた時から、それでも一度は拝む事が出来るか、一生の内に又お言葉を交はす事が出来るかと、夢のやうに願ふてゐました。今日までは入用《いりよう》のない命と捨て物に(18)取《とり》あつかふてゐましたけれど、命があればこその御対面、あゝよく私《わたくし》を高坂の録之助と覚えてゐて下くださりました、辱《かたじけ》なうござります」と下を向くに、阿関《おせき》はさめざめとして(19)、
「誰れも憂き世に一人と思ふて下さるな(20)。
してお内儀《かみ》さんは」
と阿関の問へば、
(14)浅草区(現在の台東区)山谷町と清川町の境目の町名で、昭和7年2月から山谷町に編入された。
(15)ごごごろして。
(16)一日中。
(17)たよりなくはかなげな生き方の自嘲。
(18)どうでもいいものとして
(19)さめざめと涙を流して。
●現代語訳例=『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出文庫、2008.1、篠原一訳、p.169-173)から
いえいえわたしだって路ですれ違ったくらいではまさかあなただとは気づかなかったでしょう、たった今の今まで格別しりあいでもないただの車夫(くるまや)さんとだけ思っていましたから、あなた様がおわかりにならないのも当り前、勿体ないことですけれど知らなかったことですから赦してやってくださいまし、とこたえた。
「それにしても何時からこんなお仕事をなさっているのですか。そのか弱いからだに障りは御座いませんか。小母(おば)さんが田舎に引きとられておゆきになって小川町の煙草屋さんをお止めなったという噂は余所ながら聞き及びましたけれど、わたしも嫁いでしまってからはいろいろと面倒なことが御座いまして、気軽には尋ねていったりお手紙さしあげたりすることも儘なりませんでした。今は何処にお家をかまえていらっしゃるのですか。おかみさんはご健勝(おまめ)ですか。お子さんはいらっしゃるのですか。今でもわたしは小川町の勧工場を見物にゆきますたび、もとのお店がそっくりそのまま同じ煙草屋の能登やという店になっているので何時とおっても自然と気がひかれてのぞきこんでしまい、ああ高坂さん家の録さんが子供だった頃、学校の行き帰りに寄っては巻き煙草のおこぼれをもらって生意気げに吸っていたものだけど今は何処で何をしているのだろう、気だての優しい人だったからこんな難しい世間をどのように暮らし渡っているのだろう、そう気になっていました。実家に帰るたびにご様子をもしかしたら知っているのかと訊(き)いてみますけれど、猿楽町をはなれたのは今ではもう五年前のこと、はじめからご消息を知るようなおつきあいでもありませんでしたから、結局はあなた様のことはよくわからないまま、今夜お逢いできてどんなに懐かしいことで御座いましょう」
そう、お関は自分のことは忘れて話す。車夫、高坂録之助はながれる汗を手ぬぐいで拭いながら話した。
「お恥ずかしい身の上になりまして、今では家というものもございません。寝床は浅草町の木賃宿、村田という店の二階にころがって、気のむいたときは今夜みたいに遅くまで車を挽くこともありますし、それも厭と思えば日がな一日ごろごろとして煙のように気ままに暮らしてます。あなたさまは相変わらずお綺麗でらっしゃいますね。奥さまにおなりなさったと聞いたときから、それでも一度はお顔を拝見できるかな、死ぬまでにはお話することもできるかな、なんて夢みたいに思ってました。今日までは吹けば飛ぶよな命と思って捨て物にあつかってきましたけれど本トに命あってのものだね、こうしてあなた様とまた逢えたしお話もできた。ああ、よくわたしを高坂の録之助とおぼえていてくださいました、かたじけのうございます」
その言葉にお関もさめざめと泣きたいような気持ちになり、誰しも皆こんな辛い世の中にたったひとりで生きてるのではないのだと思ってくださいな、わたしも世間のどこかにいます、と呟いた。
ところでお内儀(かみ)さんは、とお関がたずねると高坂録之助は云いにくそうに言葉を濁し濁ししながら云った。
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