十三夜⑪

実家を出たお関は、澄んだ月、風の音、たえだえの虫の音を聞きながら嫁ぎ先へと戻っていきます。ところが、上野へ入ったところで乗っている人力車の車夫が・・・・・・

さやけき(1)月に風のおと添ひて、虫の音《ね》たえだえに物がなしき上野(2)へ入《い》りてよりまだ一町《てう》(3)もやうやうと思ふに、いかにしたるか車夫はぴつたりと轅《かぢ》(4)を止めて、

(1)形容詞「さやけし」の連体形で、すがすがしい、清く澄んでいる。
(2)「物がなしき上」と「上野」の掛詞。上野の森へ入るとひっそりしてさびしい。
(3)60間。メートル法換算で約109m。
(4)人力車のかじ棒。

「誠《まこと》に申しかねましたが、私はこれで御免を願ひます、代《だい》(5)は入りませぬからお下《お》りなすつて」と突然《だしぬけ》にいはれて、思ひもかけぬ事なれば阿関《おせき》は胸をどつきりとさせて、
あれ、お前、そんな事を言つては困るではないか、少し急ぎの事でもあり、増《ま》し(6)は上げやうほどに骨を折つておくれ(7)、こんな淋しい処《ところ》では代りの車もあるまいではないか、それはお前、人困《ひとこま》らせといふ物、愚図《ぐづ》らずに(8)行つておくれ」
少《すこ》しふるへて(9)頼むやうに言へば、

(5)代金
(6)規定の代金より余分に出す割増金。
(7)精を出して引いていっておくれ。
(8)ぐずぐず言わずに。
(9)車夫が悪いことをしているのではないかと恐れているとみられる。

増しが欲しいと言ふのではありませぬ、私からお願ひです、どうぞお下りなすつて。もう引くのが厭《い》やになつたのでござります」
と言ふに、
「それではお前加減でも悪るいか、まあどうしたと言ふ訳、此処《こゝ》まで挽《ひ》いて来て厭《い》やになつたでは済むまいがね」
と声に力を入れて車夫を叱《しか》れば、
「御免《ごめん》なさいまし、もうどうでも厭《い》やになつたのですから」
とて提燈《ちようちん》を持《もち》しまゝ、不図《ふと》脇へのがれて(10)
「お前は我まゝの車夫《くるまや》さんだね、それならば約定《きめ》(11)の処《ところ》までとは言ひませぬ、代りのある処まで行つてくれゝばそれでよし、代《だい》はやるほどに何処か其処《そこ》らまで、切《せ》めて広小路までは行つておくれ」
と優しい声にすかす(12)様にいへば、
(10)「のかれて(退かれて)」のことか。ふいと脇へ身をよけられて。人力車のかじ棒をおろしてしまったとみられる。
(11)取り決め。約束。
(12)慰めなだめて、機嫌をとる。
「なるほど若いお方ではあり、この淋《さび》しい処《ところ》へおろされては定めしお困りなさりませう。これは私が悪うござりました、ではお乗せ申しませう、お供を致しませう、さぞお驚きなさりましたろう」
とて悪者《わる》らしくもなく提燈《ちようちん》を持かゆるに(13)、お関もはじめて胸をなで(14)、心丈夫《こゝろじようぶ》に車夫の顔を見れば、二十五六の色黒く、小男の痩《や》せぎす(15)、「あ、月に背けたあの顔が誰《た》れやらであつた、誰《た》れやらに似てゐる」と人の名も咽元《のどもと》まで転がりながら(16)
「もしやお前さんは」
と我知らず声をかけるに、

(13)提灯を持ちかえて、再び車を引こうとする。
(14)安心する。
(15)骨ばってほっそりした体つき。
(16)口まで出そうになりながら。

「ゑ」
と驚いて振《ふり》あふぐ男、
「あれ、お前さんはあのお方ではないか、私をよもやお忘れはなさるまい」
と車より濘《すべ》るやうに下りてつくづくと打《うち》まもれば(17)
貴孃《あなた》(18)は斎藤の阿関《おせき》さん。面目《めんもく》もない、こんな姿《なり》で。背後《うしろ》に目がなければ(19)何の気もつかずにゐました。それでも音声《ものごゑ》にも心づくべき筈《はづ》なるに、私は余程《よつぽど》の鈍《どん》に(20)なりました」と下を向いて身を恥れば、阿関《おせき》は頭《つむり》の先より爪先まで眺めて、
(17)見つめる。見守る。「打」は接頭語。
(18)「貴嬢」は、未婚女性についての敬称。車夫の言葉の「あなた」には最後までこの感じが当てられている。
(19)目がついていないので。
(20)頭の働きが鈍く。「貧すれば鈍する」

朗読は、下の「いちようざんまい」をご参照ください。





現代語訳例=『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出文庫、2008.1、篠原一訳、p.166-169)から

その夜道は冴え冴えとした月明かりのもと、風の音も虚らに響き、虫の声も絶えがちで、もの悲しさが募るばかりだった。

上野に入ってまだ一町もいっていないというところで、どうしたのか車夫(くるまや)はピタリと梶をおろし、すいません、云いだしにくいのですがわたしはここで失礼させていただきます。お㈹は要りませんからどうぞお降りになってください、と突然云った。

思いがけないことだったのでお関はさては夜盗のたぐいか、と胸をどきりとさせた。

「あれお前さん、そんなことを云っては困るじゃないのさ。少し急いでもいるんだから、お㈹に色はつけるから骨を折っておくれよ。こんなうらさびしいところではかわりの人力車(くるま)もあるわけないだろ」

それはお前さん、人困らせというものだよ、ぐずらずに行っておくれよ、と少し震えながらも平静を装って頼むように云った。しかし、車夫は、お㈹が不服なのではありません、わたしからの御願いです、どうかお降りになってください、もう車をひくのが厭になったんです、と云う。だから、それではお前さん、加減が悪いのかい、まあどうしたんだい、ここまでひいてきてだしぬけに厭になったでは済まないだろ、と声に力を入れて車夫を叱れば、車夫は、御免なさいまし、もうどうにも厭になったのですから、と云って提灯を持ったままツイと脇に寄ってしまった。

お前は我が儘(まま)な車夫だね、それなら頼んだ処までとは云わないから、かわりの人力車のひろえるところまでいってくれればそれでいいよ、お㈹はやるから何処かそこらまで、せめて広小路まではいっておくれよ、とお関はなだめすかすように優しい声で云った。すると車夫はフッと優しい顔を見せて、そうですね、若い女の方ではこんな淋しいところで降ろされてはきっとお困りになるでしょうね、これはわたしが悪うございました、ではお乗せいたしましょう、お供いたしましょう、さぞかし驚きになったでしょうね、と云った。

車夫がさほど悪い人でもない様子で提灯を持ちかえ人力車を挽きだすと、お関もはじめて胸をなでおろし、ふと安心した心持ちから車夫の顔を見た。車夫は歳のころ二十五、六歳の色黒の小男で、骨っぽく痩せていた。何処かで見た感じがする。あ、あの月からそむけた顔が誰かだった、誰かに似ている、とその人の名前もお関の喉元までせりあがってきて、もしかしたらお前さん、と思わず声をかけてしまった。

車夫は、え、と振りかえり棍棒をにぎりながらお関を仰ぎ見た。ああ、お前さんはあの人じゃないかい、わたしをまさか忘れたわけではないだろ、と車からすべるようにおりてお関が車夫とつくづく顔をあわせれば車夫はハッとして、「あなたは斎藤のお関さん? こんななりで面目もない、後ろに目がないものだからちッとも気づきませんでした。しかし、それでもお声で気づく筈なのに、わたしはよっぽど鈍感な男になってしまったようです」
と、下を向いて恥ずかしそうにした。
お関は車夫の頭のてっぺんからつま先までながめて、




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