十三夜⑩

「十三夜」のつづき。嫁ぎ先を飛び出してきたお関でしたが、両親の説得で帰らざるをえなくなります。帰る先は地獄と知りつつ送り出さざるをえない両親の苦悶のようすが描かれています。

実家は上野の新坂下(1)駿河台(2)への路なれば茂れる森の木《こ》のした暗(やみ)(3)侘《やみわび》しけれど(4)、今宵《こよひ》は月もさやかなり(5)、広小路へ出《いづ》れば昼も同様、雇ひつけの車宿《くるまやど》(6)とて無き家なれば、路ゆく車を窓から呼んで、
(1)『東京名所図絵上野公園之部(上)』(明治29・9)に「新坂。徳川氏家廟の東より下谷鶯谷へ通ずる坂をいふ。明治以後新に之を開鑿せり」とある。
(2)いまの東京都千代田区神田駿河台。駿河台一帯の高台は、武士階級の身分の高い家柄の屋敷町として知られていた、という。
(3)上野の森らしいところの茂みの木陰の暗さ。
(4)もの寂しく、心細いけれど。
(5)明るい。はっきりしている。
(6)人力車屋。車屋。
「合点《がてん》が行つたら兎《と》も角も帰れ。主人《あるじ》の留守に断《ことはり》なしの外出、これを咎《とが》められるとも申訳《まをしわけ》の詞《ことば》はあるまじ。少し時刻は遲れたれど、車ならばつひ一ト飛《とび》(7)。話しは重ねて聞きに行かう、先《ま》づ今夜は帰つてくれ」
とて手を取つて引出《ひきいだ》すやうなるも、事あら立《だて》じ(8)の親の慈悲、阿関はこれまでの身(9)と覚悟して、

(7)ちょっとひと走り。距離が短い、時間がかからない。
(8)事をおだやかにすまそう。
(9)これ以上はどうしようもない我が身。

「お父様《とつさん》、お母様《つかさん》、今夜の事はこれ限り、帰りまするからは私は原田の妻なり。良人《おつと》を誹《そし》る(10)は済みませぬほどに、もう何も言ひませぬ。関は立派な良人《おつと》を持つたので弟《おとゝ》の為にも好《い》い片腕、あゝ安心なと喜んでゐて下されば。私は何も思ふ事はござんせぬ。决して决して、不了簡《ふりやうけん》(11)など出すやうな事はしませぬほどに、それも案じて下さりますな。私の身体《からだ》は今夜をはじめに勇のものだと思ひまして、あの人の思ふまゝに何《なん》となり(12)して貰《もら》ひましよ。それではもう私は戻ります、亥之《いの》さんが帰つたらばよろしくいふて置いて下され。お父様《とつさん》もお母様《つかさん》も御機嫌《ごきげん》よう、この次には笑ふて参りまする」
(10)悪く言う。 非難する。 けなす。
(11)よくない考え。家出や自殺など。
(12)どうなりと。
とて是非なさゝうに(13)立《たち》あがれば、母親《はゝおや》は無けなしの巾着《きんちやく》(14)さげて出て、駿河台まで何程《いくら》でゆくと門《かど》なる車夫に声をかくるを、
「あ、お母様《つかさん》、それは私がやりまする、ありがたうござんした」
と温順《おとな》しく挨拶《あいさつ》して、格子戸《かうしど》くゞれば顔に袖《そで》、涙をかくして乗り移る哀れさ、家《うち》には父が咳払《せきばら》ひの、これもうるめる声(15)なりし。

(13) しかたなさそうに。
(14)金入れ。財布。
(15)湿った、涙ぐんだ声。

朗読は、下の「いちようざんまい」をご参照ください。




現代語訳例=『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出文庫、2008.1、篠原一訳、p.164-166)から

斎藤の実家は上野の新坂下にあり、駿河台への路と云えば鬱蒼とした森の道でうら侘びしい。しかし、今夜は月も冴え冴えとしていて広小路に出れば昼間のようだ。斎藤の実家はお雇いの車屋など到底ないい家だから、路をゆく車屋を窓から呼んで話があったらとにかく帰れ、主人のいない間の無断での外出をとがめられても言い訳は出来ない、少し遅くはなったけれど車をひろえば一ト足のところ、話はまた改めて聞きにいこう、まずは今夜は帰ってくれ、と手をとって家から連れだしたのもきっと親心というものだ。わたしはこれまでの自分は死んだんだと思って、云った。

「御父様御母様、今夜のことはこれ限り、もう帰りますからにはわたしは原田の妻で御座います。夫をそしるのは妻としていけないことですから、もう何も云いません。関は立派な人のもとに嫁いだのです。弟のためにもいい片腕となるでしょう。ああ安心だなあと喜んでいてくださればわたしは何もいうことなんかありません。決して決して不料簡なことなんぞしでかしませんからそれもご心配なさらないでください。わたしの身体は今夜限り勇のものだと思うことにして、あの人の思うままにどうとでもなりましょう。それではわたしはもうお暇いたします。亥之助さんが戻ったら宜敷(よろしく)お伝えください。御父様御母様もごきげんよう」

この次には笑ってお訪ねします、と仕方なさげに立ち上がると、母親はなけなしの金をいれた巾着をさげて、駿河台までいくらかかる、と車夫(くるまや)に声をかける。

「あ、御母様、それはわたしが払います、ありがとう御座いました、とおとなしく挨拶をして格子戸をくぐる。顔に袖おしあて、涙をかくして車にとびのる哀れさは如何ともしがたく、家の中で父親が咳払いをする声も泣きだしそうに潤んで響く。

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