十三夜⑥
「箸の上げ下し」にまで小言を言う夫との生活について、お関の話がつづきます。
はじめの中《うち》は何か串談《じようだん》に態《わざ》とらしく邪慳《じやけん》に遊ばすのと思ふてをりましたけれど、全くは(1)私に御飽《おあ》きなされたので、こうもしたら出てゆくか、あゝもしたら離縁をと言ひ出すかと、苦めて苦めて苦め抜くのでござりましよ。御父様《おとつさん》も御母様《おつかさん》も私の性分は御存じ、よしや良人《おつと》が芸者狂ひなさらうとも、囲い者(2)して御置《おお》きなさらうともそんな事に悋気《りんき》(3)する私でもなく、侍婢《をんな》どもからそんな噂《うわさ》も聞えまするけれど、あれほど働きのある御方《おかた》なり、男の身のそれ位はありうち(4)と、他処《よそ》行(5)には衣類《めしもの》にも気をつけて気に逆らはぬやう心がけてをりまするに、唯《たゞ》もう、私のする事とては一から十まで面白くなく覚しめし、箸《はし》の上げ下しに、『家の内の楽しくないは妻が仕方が悪るいからだ』と仰《おつ》しやる。
それもどういふ事が悪い、此処《こゝ》が面白くないと言ひ聞かして下さる様ならばよけれど、一筋に、『詰《つま》らぬくだらぬ、解らぬ奴《やつ》、とても相談の相手にはならぬ』の、『いはゞ太郎の乳母として置いて遣《つか》はす』のと嘲《あざけ》つて仰しやるばかり、ほんに良人《おつと》といふではなく、あの御方《おかた》は鬼でござりまする。御自分の口から出てゆけとは仰しやりませぬけれど、私がこの様な意久地《いくぢ》(6)なしで、太郎の可愛《かわゆ》さに気が引かれ、どうでも御詞《おことば》に異背《いはい》(7)せず、唯々《はいはい》と御小言《おこごと》を聞いてをりますれば、『張《はり》も意気地もない愚《ぐ》うたらの奴《やつ》、それからして気に入らぬ』と仰しやりまする、さうかと言つて少しなりとも私の言条《いひでう》を立てゝ、負けぬ気に御返事《おへんじ》をしましたら、それを取(とつ)こに(8)、出てゆけと言はれるは必定《ひつぢやう》、私は御母様、出て来るのは何でもござんせぬ。名のみ立派の原田勇に離縁されたからとて、夢さら(9)残りをしいとは思ひませぬけれど、何にも知らぬあの太郎が、片親になるかと思ひますると、意地もなく我慢《がまん》(10)もなく、詫《わび》て機嫌を取つて、何でもない事に恐れ入つて、今日までも物言はず辛棒《しんぼう》してをりました。御父様、御母様、私は不運でござります」
とて口惜《くや》しさ悲しさ打出《うちいだ》し(11)、思ひも寄らぬ事を談《かた》れば両親《ふたおや》は顏を見合せて、さてはその様の憂き仲かと呆《あき》れて、暫時《しばし》いふ言《こと》もなし。
朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
(1)ほんとうは。
(2)めかけ。
(3)やきもち、嫉妬。
(4)世の中で、ありがちなこと。
(5)外出。他の女性に通う意がこめられている。
(6)「意気地」のあて字。
(7)言いつけに背くこと。
(8)口実にして。
(9)少しも、いっこうに。
(10)わがまま。自分本位の気持。
(11)口に出し。
●現代語訳=『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出文庫、2008.1、篠原一訳、p.153-155)から
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