十三夜④

 「十三夜」のつづき。お関は、いよいよ意を決して、嫁ぎ先へ帰らない決意を、父に訴えかけます。

嫁入りてより七年の間、いまだに夜に入りて客に来しこともなく、土産《みやげ》もなしに一人歩行《ひとりあるき》して来るなど、悉皆《しつかい》(1)ためしのなき事なるに、思ひなしか衣類も例《いつも》ほど燦《きらびや》かならず、稀《まれ》に逢ひたる嬉しさに左《さ》のみは心も付かざりしが(2)、聟《むこ》よりの言伝《ことづて》とて何一言の口上(3)もなく、無理に笑顏は作りながら底に萎《しほ》れし処《ところ》のあるは何か子細のなくては叶はず(4)、父親《てゝおや》は机の上の置時計を眺めて、

「これや、モウ程なく十時になるが、関は泊つて行つてよいのかの。帰るならばもう帰らねばなるまいぞ」
気を引いて見る(5)親の顏、娘は今更のやうに見上げて、
「御父様《おとつさん》。私は御願ひがあつて出た(6)のでござります。どうぞ御聞遊《あそば》して」
屹《きつ》となつて(7)畳に手を突く時、はじめて一《ひ》トしづく(8)、幾層《いくそ》の憂きを洩《もら》しそめぬ。
父は穏かならぬ色を動かして(9)
「改まつて何かの」
と膝《ひざ》を進めれば、

「私は今宵限り原田へ帰らぬ决心で出て参つたのでござります。勇が許しで(10)参つたのではなく、あの子を寐《ね》かして、太郎を寐かしつけて、もうあの顔を見ぬ决心で出て参りました。まだ私の手より外、誰れの守《も》りでも承諾《しようち》せぬほどのあの子を、欺《だま》して寐かして夢の中《うち》に、私は鬼になつて(11)出て参りました。御父様《おとつさん》、御母様《おつかさん》、察して下さりませ。私は今日まで遂《つ》ひに(12)原田の身に就《つ》いて御耳に入れました事もなく、勇と私との仲を人に言ふた事はござりませぬけれど、千度《ちたび》も百度《もゝたび》も考へ直して、二年も三年も泣尽《なきつく》して今日といふ今日、どうでも離縁を貰《もら》ふて頂かうと決心の臍《ほぞ》をかためました。どうぞ御願ひでござります、離縁の状を取つて下され。私はこれから内職なり何《なん》なりして、亥之助が片腕にもなられるやう心がけますほどに、一生一人で置いて下さりませ」

とわつと声たてるを噛《かみ》しめる襦袢《じゆばん》の袖《そで》、墨絵の竹も紫竹《しちく》の色にや(13)出《いづ》ると哀れなり。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。
 



(1)まったく、全然。
(2)それほどは気もつかなかったけれど。
(3)あいさつ。
(4)わけがなければならない。
(5)それとなく相手の気持ちを探ってみる。
(6)うかがった。参上した。
(7)意を決しての態度。
(8)涙をひとしずく、の意。同時にそれは、次の「幾層の憂きを洩しそめぬ」(積もり積もった憂い)にもかかる。
(9)不安そうな顔いろになって。
(10)勇の許しをえたうえで。
(11)心を鬼にして。子を置き去りにして来た非常なわが身を「鬼」と呼んでいる。
(12)これまで一度も。
(13)模様の墨絵の竹も血の涙で紫色に変りはしないかと。「紫竹」は、ハチクの栽培品種クロチクの色素がやや薄いもので、茎が黒紫色をしている。


●現代語訳=『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』から(河出文庫、2008.1、篠原一訳、p.150-152)から

嫁いでから七年の間、いままで夜が更けてから実家に来たことはなく、手土産もなしで一人歩きしてくることなども全くなかった。だからであろうか、着ている衣類もいつもほどきらびやかで華やかな感じがしない。久しぶりに逢ったうれしさにむやみに心おどるのも感じるが、婿からの言づてのひとつも云うわけでもなし、無理に笑顔をつくりながら心の底に元気のないところがあるのは何か問題がなければ説明がつかないというのが自分でもわかる。

父親は机の上の置き時計をながめて、これはもうすぐ十時になるが、関は泊まっていっていいのか、帰るならもう帰らなければいけないだろう、と親の顔を見せる。わたしは今さらのように見上げて、云う。

「御父様、わたしは御願いがあって伺ったので御座います。どうぞお聞きになってください」
とキッとなって畳に手をつく時、はじめてひとしずく、幾重にも層をなした憂いを口にした。
父親は穏やかではない様子で、あらたまってどうしたんだ、とひざをすすめた。

わたしは今夜限り、原田の家には帰らないつもりで出てきたので御座います。勇の許しで伺ったのではなく、あの子を寝かして、太郎を寝かしつけて、もうあの顔を見ない決心で出てまいりました。まだわたしの手より他には誰のおもりでも承知しないほどのあの子を、騙して寝かせて夢のなかに、わたしは鬼になってまいりました。御父様御母様、察してください。わたしは今日までついに原田のやり方についてお耳にいれましたこともなく、勇とわたしとの仲を他人(ひと)さまに申し上げたことも御座いませんでしたが、千度、百度かんがえなおして二年、三年泣きつくして今日という今日はどうしてでも離縁を貰っていただこうとかたく心を決めてきました」

どうぞ御願いで御座います、離縁状をとってください、わたしはこれから内職なりなんなりして亥之助の片腕にもなれるように努力いたしますから一生独身(ひとりみ)で置いてくださいませ、とワッと声をたてて襦袢の袖をかみしめれば、墨で描かれた竹の絵も哀しく紫に滲んでしまう。


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