十三夜②
「十三夜」のつづき。実家を訪れたお関は、いよいよ父親と対面します。前回の冒頭に「例は威勢よき黒ぬり車の、それ門に音が止まつた娘ではないかと両親に出迎はれつる物を、今宵は辻より飛のりの車さへ帰して悄然と格子戸の外に立てば、」とありましたが、きょうの場面でも、「ほうお関か、何だな其様な處に立つて居て、何うして又此おそくに出かけて来た、車もなし、女中も連れずか、・・・・・・」などと、いつもとは違うワケアリの訪問であることがうかがわれます。
外なるは(1)おほゝと笑ふて、
「お父樣《とつさん》私で御座んす」
といかにも可愛《かわゆ》き声、
「や、誰れだ、誰れであつた」と障子を引明《ひきあけ》て、
「ほうお関か、何だな其様《そん》な處《ところ》に立つて居て、何《ど》うして又此《この》おそくに出かけて来た、車もなし、女中も連れずか、やれやれま早く中へ這入《はい》れ、さあ這入れ、何うも不意に驚かされたやうでまごまごするわな、格子は閉めずとも宜《よ》い私《わ》しが閉める、兎《と》も角も奥が好い、ずつとお月様のさす方へ、さ、蒲団(ふとん)へ乗れ、蒲団へ、何うも畳が汚《きた》ないので大屋に言つては置いたが職人の都合があると言ふて(2)な、遠慮も何《なに》も入《い》らない着物がたまらぬ(3)から夫《そ》れを敷ひて呉れ、やれやれ、何うして此遅くに出て来た、お宅《うち》では皆お変りもなしか」と例《いつ》に替らず(4)もてはやさるれば、針の席《むしろ》にのる様(5)にて奥さま扱かひ情《なさけ》なくじつと涕《なみだ》を呑込《のみこん》で、「はい誰れも時候《じかう》の障《さわ》りも御座りませぬ、私は申訳《まをしわけ》のない御無沙汰《ごぶさた》して居りましたが貴君《あなた》もお母様《つかさん》も御機嫌よくいらつしやりますか」と問《と》へば、
「いや最《も》う私《わし》は嚔《くさみ》一つせぬ位、お袋は時たま例の血の道(6)と言ふ奴《やつ》を始めるがの、夫《そ》れも蒲団かぶつて半日も居ればけろけろとする病だから子細はなしさ(7)」と元気よく呵々《からから》と笑ふに、
「亥之《ゐの》さん(8)が見えませぬが今晩は何處《どちら》へか参りましたか、彼《あ》の子も替らず勉強で御座んすか」と問へば、母親はほたほたとして(9)茶を進めながら、
「亥之《ゐの》は今しがた夜学に出て行《ゆき》ました、あれもお前お蔭さまで此間《このあひだ》は昇給させて頂いたし、課長様が可愛《かわゆ》がつて下さるので何《ど》れ位心丈夫《ここゝろじようぶ》であらう、是れと言ふも矢張《やつぱり》原田さんの縁引《ゑん》が有るからだとて宅《うち》では毎日いひ暮して居ます、お前に如才《ぢよさい》は有るまい(10)けれど此後《このご》とも原田さんの御機嫌の好いやうに、亥之《ゐの》は彼《あ》の通り口の重い質《たち》だし何《いづ》れお目に懸《かゝ》つてもあつけない御挨拶《ごあいさつ》よりほか出来まいと思はれるから、何分《なにぶん》ともお前が中に立つて私どもの心が通じるやう、亥之《ゐの》が行末《ゆくすゑ》をもお頼み申《まをし》て置てお呉《く》れ、ほんに替《かは》り目(11)で陽気が悪いけれど太郎《たろ》さんは何時《いつ》も悪戯《おいた》をして居ますか、何故《なぜ》に今夜は連れてお出《いで》でない、お祖父《ぢい》さんも恋しがつてお出《いで》なされた物を」
と言はれて、又今更にうら悲しく、「連れて来やうと思ひましたけれど彼《あ》の子は宵まどひ(12)で最《も》う疾《と》うに寐《ね》ましたから其《その》まゝ置いて参りました、本当に悪戯《いたづら》ばかりつのりまして聞わけとては少しもなく、外へ出れば跡を追ひまするし、家内《うち》に居れば私の傍《そば》ばつかり覗《ねら》ふて、ほんにほんに手が懸《かゝ》つて成《なり》ませぬ、何故《なぜ》彼様《あんな》で御座りませう」
と言ひかけて思ひ出しの涙むねの中《なか》に漲《みなぎ》るやうに、「思ひ切つて置いては来たれど今頃は目を覚して母《かゝ》さん母さんと婢女《をんな》ども(13)を迷惑《めいわく》がらせ、煎餅《おせん》やおこしの哆《たら》し(14)も利《き》かで、皆々手を引いて鬼に喰《く》はすと威《おど》かしてゞも居やう、あゝ可愛《かあひ》さうな事を」と声たてゝも泣きたきを、さしも両親《ふたおや》の機嫌よげなるに言ひ出《いで》かねて、烟《けむり》にまぎらす烟草《たばこ》二三服、空咳こんこんとして(15)涙を襦袢《じゆばん》の袖《そで》にかくしぬ。
朗読は、下記の「いちようざんまい」にてどうぞ。
(1)外にいる人は。主人公のお関のこと。
(2)だから大家は、まだ畳替えをしてくれない、というわけだ。
(3)着物が汚れてしまう。
(4)いつもとかわりなく。
(5)心が安らかでない場にいる意。親がすすめてくれる座蒲団のたとえ。
(6)血行不順で頭痛やめまいが起こる婦人病。
(7)けろりと治るから面倒なことはない。
(8)お関の弟の亥之助。
(9)うれしそうに親しみを込めた笑い顔を見せて。
(10)ぬかりはあるまい。
(11)気候の変わり目。
(12)夕方から眠たがること。
(13)女中たち。
(14)だまし。ここでは、子どもをあやすこと。
(15)涙がこみ上げてくるのを隠し、ごまかすための咳払い。
●現代語訳=『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』(河出文庫、2008.1、篠原一訳、p.143-146)から
外に立っているわたしはおほほと笑って、御父様(おとっさん)わたしで御座んす、とこのうえなく可愛い声を出してみる。や、誰だ、誰だったんだ、と父親は障子を引きあけて、ほうお関か、どうしたんだそんなところに立って、どうしてまたこんな遅くに出かけてきた、人力車もなし、女中も連れてないのか、やれやれまあ早く中に這入(はい)れ、さあ這入れ、と云う。
「不意に驚かされたようでまごつくなあ。戸は閉めなくてもいい、俺が閉める。とにかく奥がいい。ずっとお月さんの射す方にいけ。さ、座布団をつかえ、座布団を。どうも畳がよごれているから。大家に云っておきはしたんだが職人の都合があるとか云われてな。遠慮も何も要らない、着物が汚れるからそれを敷いてくれ」
やれやれ、どうしてこんな遅くに出てきた、原田様のお宅(うち)ではみなさまお変わりもなしか、と平常(いつ)もと変わらぬ調子で喜んで迎えてくれる。まるで針の筵(むしろ)に座るような心地で、奥さま扱いされるたびに情けなさがこみあげる。ジッと涙をのみこんで、ええ、誰も時候の障(さわ)りもありません、わたしも申し訳ないご無沙汰いたしておりました、御父様も御母様(おっかさん)もご機嫌はいかがですか、とソツなく言葉をかえしてしまう。
「いやそれはもう、俺はくしゃみひとつもしないくらい元気だし、お袋にしても時々、例の血の道というやつをはじめるが、それも布団をひっかぶって半日もしてればケロッと治るようなたぐいのものだからな、恙(つつが)ないものさ」
と父親は呵々大笑(かかたいしょう)する。
また、亥之助さんが見あたりませんけど今晩はどちらかに伺ってるんですか、あの子も元気に勤勉にやってますか、とたずねれば母親は嬉しげな様子でお茶をすすめつつ云う。
「亥之助は今しがた夜学に出かけてゆきました。あれもお前のおかげでこの間は昇給させていただいたし、課長さまが目をかけて可愛がってくださるのでどれほど心強いことだろ。これというのもやっぱり原田さんのご縁があるからだねえって宅(うち)では毎日云って暮らしてます。お関、おまえに如才はあるまいけど、今後とも原田さんのご機嫌の好いように万事とりはからっておくれよ。亥之助はあのとおり口の器用な子じゃなし、いずれお目にかかっても情けない挨拶しかできないだろうから、どうかお前が間にたって御父様やあたしの心が通じるよう、亥之助のゆくすえをよろしく頼んでおいておくれ」
季節の変わり目でとんと陽気が悪いけど太郎ちゃんはいつもいたずらをしていますか、どうして今夜はつれて出てこなかったのですか、おじいさんも恋しがっていらっしゃったのに、とつづけられて、わたしはまた今さらながらもうら哀しくなってしまった。
そして、ほんとうにいたずらばかりするようになりまして全然ききわけなく、
外へ出れば後を追ってまわりますし、家の中にいてもわたしのそばにはりついてばかりで、ほんとうに手がかかってしょうがありません、どうしてあんななんでしょうね、とこたえかけ、子供のことを思いだし、まるで涙が胸の裡にふつふつとみなぎるように感じられた。ああ、思いきって置いては来たけれど、今頃は目を覚まして母(かあ)さん母さんと女中(おんな)たちに迷惑をかけ、煎餅(おせん)やおこしをあげると云っても機嫌をなおさないものだから皆が皆して手をやすめて鬼に喰わすとおどしているのかもしれない、ああ可哀想なことをしてしまった、と声をあげて泣きだしたくなった。が、こんなにも両親の機嫌の好いのを目の当たりにしてしまってはそんなことを云いだすことも出来ず、想いを煙にまぎらわすように二、三服煙草を吸い、空咳をこんこんとして涙をそっと襦袢の袖にぬぐうのがせいぜいだった。
コメント
コメントを投稿