一葉「うもれ木」18

 きょうは、第7回のつづきです。


暮れてその日も点燈(ひともし)ごろ、辰雄廻礼の車をそのまま、交際ひろき身の労(つか)れも厭(いと)はず、門(かど)に梶棒(かぢぼう)おろさすれば、春色いとど長閑(のどか)になりて、いふ事きく事一々におもしろく、籟三紙鳶(いかのぼり)(1)の昔しを言へば、辰雄廻(まは)し独楽(こま)の面白(おもしろ)さ忘れずと語り、彼れに移り是れに移り、次第々々に蜜(みつ)に(2)なりて、
「幾変遷(いくへんせん)の今の身、中々にそのかみの無心(むしん)(3)恋しきばかり。世のこと人のこと目に移りて、彼れも助けたく是れも救ひたく、不想応の事業に身を委(ゆだ)ねて、及ばぬ力の我ながら口惜(くちを)しく、暗涙を呑むこと誰(た)が業(わざ)ならねば、訴ふるに処(ところ)もあらず。凝(こ)りにこりし憂鬱(いううつ)の気の晴るるは、此処(ここ)にかく遊ぶ時ばかり」
と、何故(なにゆゑ)か例に似ぬ詞(ことば)、籟三聞(き)き咎(とが)めて、
「怪しき事かな。君が博愛の徳、上(かみ)に聞え下(しも)に渡つて、推尊(すゐそん)せぬ人なき筈(はず)を、何故(なにゆえ)の御不満ぞ」
と問へば、
「何事も言はぬが花(4)なり。お互に聞きつ聞かせつ、楽しき事ならばよけれど、我が胸にさへ持切れぬ苦を、君達に分けてなる事か。元来(もとより)正(せい)は邪(じや)に押され、直(ちよく)は曲(きよく)に勝ちがたきが常、何事も問ひ給ふな、脳いよいよ乱るる様(やう)なり」
と、振あふぐ面(おもて)気の処為(せゐ)にや、血の気(け)も見えず青く白く、唇(くちびる)を噛(か)んで沈思の体(てい)。お蝶たまらず兄の袂(たもと)そと曳(ひ)けば、籟三少し前に進みて、
「よき事のみを聞き聞かせの友いくらもあり、憂喜(いうき)(5)ともにと言ふ処(ところ)真実の価値(あたひ)ならずや。これを蔵(か)くされて喜こぶ者、世の中にはあるか知らねど、我等(われら)同胞(きやうだい)おもしろくなし、とは不遜(ふそん)の詞(ことば)なれど、兄弟と思ふ君の事、水火の中にも手を携へたきが願ひ、何(なん)と打明かしては下さらぬか。承らねば気も落付かず、我よりはお蝶、どの位(くらゐ)心ぼそきか。女は気の狭きもの、役にも立たずくしくしと(6)気にして、我れも迷惑、可愛(かあい)さうにもあり、五足(いつあし)十足(とあし)(7)の同じくは、諸(もろ)ともに苦を分けたし」
と腹からの詞(ことば)、お蝶もの言はず打しほれて、組み合はす手を解きつ返しつ、哀(あはれ)や胸の動悸(どうき)高かり。

(1)烏賊幟(いかのぼり)。凧のこと。もともと形がイカに似たものが多かったからこういった。「廻し独楽」などとともに子供の正月の遊び。
(2)親密に。
(3)無邪気だった子どものころ。
(4)ことわざ。口に出して言わないほうが味わいあり、差し障りもなくてよい。
(5)心配したり喜んだりすること。
(6)物思いにくれる、思いなやむようすを表わす語。
(7)五十歩百歩。けっきょくどちらも同じようなものであるたとえ。


朗読は、YouTube「いちようざんまい」でどうぞ。




《現代語訳例》『たけくらべ 現代語訳・樋口一葉』井辻朱美訳「うもれ木」から

その元旦の日も暮れて灯ともし頃に、辰雄が年始回りの帰りみち、交際の広い身の疲れもいとわずに、門口に梶棒をおろさせますと、新春ののどかなよろこびはさらにまさり、互いの言うこと聞くこと、いちいちにおもしろく、籟三か凧あげをした昔のことを持ち出せば、辰雄は独楽(こま)あそびのおもしろさを忘れてはいないと語り、話題はあれこれとうつって、しだいにうちとけた雰囲気になってゆきます。「いろいろの紆余曲折をへたこの身、もの心もつかなかった子どもの頃がかえってなつかしく思われます。世のこと、人のことが、あれこれ目に入って、あちらも助けたい、こちらも助けたい、と身分不相応の事業にとびこみはしたものの、力及ばずにいるのが、われながらくちおしく、涙をのむこともしばしばですが、われからまねいたことゆえ、だれこ訴えるわけにもゆきません。憂鬱にこりかたまった気持ちが晴れるのは、ここにこうしてお邪魔しているときばかりですよ」とどうしたことか、いつに似げない言葉です。籟三は聞きとがめて、「それはふしぎだ。きみの博愛の徳は、上にも下にも鳴りひびいて、敬いほめぬ人もないのに、なにが不満なのだ」とたずねますと、「なにごとも言わぬが花です。お互いに話し、話されて、楽しいことならばよいけれども、私の胸にさえおさめかねる苦労を、あなたがたにお分けしたくはない。もとより正義は邪悪におされ、まっすぐなものは曲がったものに勝ちがたいのが、この世の常です。どうかお聞きくださる な。頭の中がいよいよ 乱れます」とふりあおぐ顔は、気のせいか、血の気も失せて青白く、唇を噛みしめてもの思いに沈むようすです。お蝶はたまらずに、兄の袖をそっとひきますと 、籟三は少し膝をすすめて「良いことばかりを話し、話される、そうした間柄の友人はいくらもいるだろうが、喜びも悩みもともに分かちあうのが、まことの友情というものではないか。苦労話をきかされないことを喜ぶ者も、世の中にはいるか知らないが、おれも妹もそれではおもしろくない。と言っては、はなはだ不遜だが、兄弟のように思うきみのこと、ともに水火の中へも入りたい気持ちなのだ。どうか、教えてはくれまいか。承らないでは、気もおちつかず、おれよりもこのお蝶か、どれほど心細く思うことか。女は心のもちようがせまいもの、甲斐もなく、くよくよと思い悩むであろう、そうなればおれも迷惑だし、かわいそうにも思う。どうせなら同じこと、苦労を分かちあおうではないか」と心からの言葉を述べます。お蝶はものも言わずにうちしおれ、組み合わせた手をほどいたり、返したりしながら、あわれにも鼓動は高まるばかりです。


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